「365日の紙飛行機」は酷い歌と思うのは「機を見るに敏」を良しとして、自らの責任を避けられると、
聴いた人が思うと考えるから。殺された理由が個人の問題で考えられれば、無常観は個人の救済に、
活用してもいいと私も思う。しかし原発震災は早まった日本の原発開発が理由の結果と、震災中の今、
思うのでした。でも動力を人類が獲得して以降、「紙飛行機」という他力の思考は不味いと考える。
科学技術を用いて暮らす以上は災禍の責任は人類と、人が形成する社会(の仕組み)にあると、
私は考えるので。しかし人はたいてい俗物なので、聖者を欲する習癖があると仮説でき。米国の、
「トランプ現象」や大陸欧州の民族主義、日本のネット右翼の志向はみな「大いなる聖者」への帰依と、
私は理解。でも「聖者」の実態/実体は殆どが俗物だから、民主主義は破綻し易い制度と私は理解を。
だから民進党の安倍政権批判での有権者の支持獲得は、安倍政治に象徴される行政国家の未来を、
絶望と悪夢として語るべきと私は考え。ナチスドイツの初年の大量検挙などに見るとおり、行政組織は、
決断すれば自らの侵犯も可能であり。尤も国民は順法精神を逸し、政府批判と政治活動の意味が、
喪失されるという弊害を生む。つまり自分に有利というのが物事の判断基準と想像され。
だから社会を少しでも良くしようという市民活動家は批判と否定と攻撃の対象に…。
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