語り手の顔出しは、もともと物理学者のアインシュタインのアニメを思いついたときに、
出てきた考え方で。というのも「奇跡の年」を深く解るには概観でも西洋の科学史が必要だし、
説明したあとで順番に物語を進めても、門外漢は必ずつまずく。前回までの経緯を必ず入れても、
途中からの視聴には不十分なはずだから。
なので『アインシュタイン・ジャーナル』では机に載った論文三本を写したうえで、語り手となる、
科学者を写すと思い描いたのでした。もちろん実在の人物で、南部陽一郎と想定済み。一方で、
映画の企画が進行しているアシモフのファウンデーション・シリーズも、同じ手を使えるかと。そう、
初期三部作と後年書いたお仕舞いの二本は、『銀河百科事典』からの引用が必ずある。
詳しく言うとファウンデーション・シリーズは以下の通り。
『ファウンデーション』
『ファウンデーション対帝国』
『第二ファウンデーション』
『ファウンデーションの彼方へ』
『ファウンデーションと地球』
『ファウンデーションへの序曲』
『ファウンデーションの誕生』
上記に当てはまらないのが「彼方へ」と「地球」なのですが、注釈すべきは五作目の「地球」が、
一番最後、最も未来の物語という点。「序曲」と「誕生」はというと、名前で示唆されている通り、
第一作に先立つお話。重要なのは五作の小説が『銀河百科事典』からの事物や人物の引用から、
始めていることなのですね。つまり続く小説本文は、過去の記録から再構成したものという体裁。
つまり説明役としてではなく、遠未来からの「昔々」という形式が最初から存在を。なら映画でも、
「これからお見せする物語は昔のことです」と人間が説明すべき。また科学の進展を取り入れるので、
初期と後年では物語の整合が出来ていず。しかし歴史が解明されてきた結果と仮想すれば、
無理に二十一世紀の科学と常識を映画に取り込む必要はないことに。
しかし遠い未来で出版、映画になった順番が上記の通りなら、語り手自身が年を取る格好。で、
「誕生」をもって語り手自身が他界すれば(もちろん映画の中で)、「映画の中の映画」に、
名実ともになるというもの。つまり「新・銀河帝国興亡史」は、別の語り手が必要と定義され。
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