オール電化を前から批判していたので今回の原発災害を自信を持って批判していたけど、
原発を人類の罪として引き受けなければならない物と定義し直しました。昨日は一服入れたくて、
小説『タッチ』の続きを書いたのですが、『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』で、
永さんの同志の北山修の話を聴いたので。曰く、福島原発はつうであると。

夕鶴』の登場人物と「つう」と解けば、泣いていた原発を日本人が見てしまったと解釈でき。実は、
元ネタの『鶴の恩返し』はもっと単純で、老夫婦が機織の鶴の姿を見てしまって終幕の構図。一方、
『夕鶴』は織物の取引先の人物を加えることで、実社会を反映させたのですね。今回の原発災害は、
元ネタよりも、経済至上主義を明確に批判した木下順二作の戯曲から読み取るべきであり。

 もっとも小説版「ドラえもん」を引き取って帰ってきたら北山修がすでに喋っていたので、
『夕鶴』と『鶴の恩返し』の対比をした上で語ったのかは不明。でもつうと与ひょうの名前を出し、
原発災害を欲目と甘えの問題と定義していたのは、私にとっては明らか。なので知らなかったから、
免罪できるという災害ではなく。もちろん騙したてきた方がより悪いとは思う。

 かといって電力会社や役人や自民党の原発安全(神話)を真に受けて、反対派の言論に、
報道が少ないからといって耳を傾けなかったことの反省が消えるわけでなし。私自身も、
生活のうえでは冷房も暖房もつけないようにしていたけど、消費者としては電気のあることが前提と、
輪番停電で気付いたから。もっとも自然エネルギーや再生可能エネルギー否定論には与しません。

 でも今の実力が大したことはないのは事実なのだから、今しばらくは原子力にも、
衰退産業になることを祈ってだけど、頑張って泣いてもらうしか無いというもの。私自身も、
悲嘆する与ひょうにならないためにも、つうとしての原発を受け入れることに。



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