さて前回から十二日も経ちましたが、当初の予定通りに『タイムトラベルの哲学』を肴に、
思いつくまま科学談義を致します。「序章 タイムトラベルとは何か」ですでに『輪廻の蛇』と、
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を考察対象にしている。両方とも因果関係が循環する、
「タイム・リング・パラドックス」として。因みに本の方では取り扱う順番は逆であり。
『輪廻の蛇』で問題になるのは「連れ合いの自分とのあいだに生まれた子供の自分」という、
読んでいなければ意味不明な、自分が原因であり結果という幻惑を催す奇妙な構造。詳しくは、
小説の方を読んで欲しいけど、小説の主人公が一定の時間の中に「永遠に」閉じ込められていると、
定義したら良く。つまり矛盾はないけど、直線の因果関係という常識論からは受け入れがたいもの。
ただのお話だから悩むべき対象で無いというのも一つの考えですが、実際にあったと仮定しても、
筋に穴を見つけられることも確か。本当に主人公の生は「輪廻の蛇」になっているのかという疑問も、
一つ。極端に言えば主人公同士がめぐり合う場面以外に、人物の行動を規制する必要は無し。例には、
やはりアニメで大衆の記憶になっ『タッチ』を。
『タッチ』の主題は「達也が和也を受け継いで南を甲子園に連れて行く」と定義でき、
極論すれば結果が同じなら、あいだの展開を縛るものは無いということ。といっても、
三日前も言及したけど原作が完成されているため、大筋を変えると劇場版三部作という、
失敗を引き起こしてしまい。
だから私が考える映画三部作では、まず一本目は死の床に向かう和也の夢オチとして、
和也自身による甲子園出場を考えた。二本目では新田の入院は華が無い場面なので、南ちゃんが、
須見工の新体操部の設立に力を貸すことを思いつき。柏葉が登場する三本目では野心家と捉え直し、
しごきを理論に則ったものにしたいと考え。あるいは由加さんと休戦する南ちゃん。
つまり粗筋が同じといっても、人物の言動が事細かに規制できるわけで無いということに。現に、
違いが劇場版より少ないテレビシリーズでも、細かいところで脚本家の相違が現れているから。なら、
「輪廻の蛇」に絡め取られると見えて、些細なところで主人公の行動に違いが出ると仮定していいわけ。
しかし輪廻の蛇と認識してしまうのは、一人の主人公が体験するのは一回だけの人生だからですね。
だから遭遇した時点の相手の「自分」になり代わることが出来ないため、両方の自分が、
細かく見ていけば違う行動を取っていたとしても、因果関係が循環していると認識するのでは。
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