先日、秋に予定している独り芝居にむけて、スタッフと打ち合わせをした。
芝居小屋として使うのは初めての喫茶店で、照明は暗転が効かないから、何か代わるものが必要だ。幸い、7000円程で黒のパーテーションがネットで見つかったので、買う予定でいる。
着替えのための全身を映す鏡も持参する必要がある。
次の演目に移る際には、自分でスケッチブックの類いをめくって紹介してゆくしかない。スケッチブックは譜面台に置けばいい。譜面台は幸いにして、その店にある。音楽関係のライヴをよくやっている喫茶店なのだ。
スタッフは造形美術のできる知り合いで、「一応、洋画劇場」の淀川長すぎた春さん用のカツラ作りも頼んでおいた。
さあて。そろそろ台本読みを始める時期だ。
・・・となった、その晩に、芝居本番の夢を見た。
独り芝居を上演する予定の喫茶店ではない。そこは、かなり大がかりな会館のホールである。
私はトリで、前座連中はどういうわけか落語家たちである。次から次へと高座に上がってゆく。
彼らを舞台の袖で見ながら、私は自分の衣装がまるで整っていないことに気づく。あの淀川さんのカツラもない。
しかも、稽古をまるでして来なかったから、セリフなどまるで覚えていない。
これでは、全く演じられない。
さあ、どうする?
どうすればいい?
声には出さないが、内心では悲鳴を上げている。
・・・
という夢だった。
ノーテンキな夢だ(笑)。しかし、それなりに、私自身の緊張感が始まっているのだろう。
実は、こうした緊張感というのは快感なのである。
強いられた緊張感ではない。稽古も本番もやらないことにして投げてしまえば、なくなってしまうものである。
自分で自分に仕掛けた緊張感とも言えるだろうか。
そんなささやかな幸福感も伴った緊張感を持ちつつ、そろそろ稽古を始めることになる。
でかい声を出しても大丈夫な実家で、週に3日、午前中のひとときを稽古にあてようかと思う。
※関連文献 滝沢修『俳優の創造』