自分の中のキッパリ感、スッキリ感こそ最優先する | 恋着、横着、漂着 遊び盛りゆるゆるのびのび60代

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2年早く退職して機能と効率のタガを外すことが出来ました。
人生をゆるゆるのびのびと楽しんで味わって行きたいと思う60代です。

 かなりしばらくぶりに再会した旧友がいる。

 その旧友とは、もう、ウン十年前に冗談半分に文学サークルもどきを持ったひとときがあった。

 また冗談半分で何かやらないか?と持ち掛けてみようかという思いがよぎった。

 その旧友とは別に、ある知人が私の近況を尋ねて来たとカミサンから言われた。その知人は5才くらい年下で、定年退職までには、もう数年あるのだろうが、その頃、読書会のようなものでも企画しないか?と持ちかけてみるのも一興かも知れないと思った。

 

 しかし、どちらも、どうしても実現したいというほどの要求ではないということに気づいた。

 そもそも他者と関わるのは、週に一度の地元ミニコミ紙(ミニコミ紙①とする)の編集会議と隔週で交代の編集作業がある。その他少々もある。更に地域限定のミニコミ紙(②)編集も始まっている。隔月発行という、ゆるーいペースである。

 それで充分ではないか。

 

 今の自分にとっての勝負どころは、「機能と効率」にからめとられない自分のありようをどれだけキッパリと持てるか?にある。

 つい最近では、ミニコミ紙②の編集で、畑仕事に勤しむ80代の方に取材し、記事にすることそのものを通じて、それを実感できた。その際のウキウキ感をミニコミ紙①のコラムに書いたところ、編集仲間からは「なかなかいいじゃあないか」という評価を受けた。

 今の自分にとって、「機能と効率」に対抗するためのささやかな主戦場を、ここに持てそうだと思っている。

 

 何もこれ以上、自分を忙しくさせる必要はない。

 

 ただし、「機能と効率」への対抗は、そうした場を持つことだけでは足りない。

 その都度、熟読して大いに共感した本のくだりや、誰かのどこかでの発言、或いは自分自身の体験、知見のいくつかが自分の心の中に確信として錨(いかり)のように下ろされていることが必要だ。そうした錨になるものは、常に新鮮さを持っていなければならない。自分にとって、色あせない、あれやこれやの現実に対抗できるものたちである。

 それらは、時々において入れ替わるかもしれないが、ずっと生き続ける、耐久性にすぐれた(笑)箴言もあるだろう。

 例えば、そのうちのひとつは「リクツでなく感覚で」というものだ。これは淀川長治先生の「映画はリクツで観ちゃだめ、もっと感覚で楽しまないと」に由来するのだが、むしろ映画を超えて生きる箴言である。似た見地からの「理は情を通じてこそ」という、これは養老孟司氏が解説文で書いていた文言を自分が勝手にアレンジしたものである。

 

 人間は常に動き続けているわけで(野口三千三『原初生命体としての人間』)、こうした箴言も常に生きている。そうした箴言は自分の心が働くときの拠り処となる。迷走しないための道しるべのようなものだ。

 それらあれらを総動員しながら、ブレずに、キッパリ、スッキリと「機能と効率」に対抗したいものである。