・・・とまあ、我ながら何とも長ったらしいタイトルである。
最後のテレビ連続ドラマとは2009年に放映された「ありふれた奇跡」のことである。
手許にはレンタル専門で買ったからやや割安だったものの、それでもそれなりの価格だった記憶のある全巻DVDがある。
本来なら全巻にわたってのシナリオも欲しい。
しかし、ついに刊行されずじまいだった。当時すでに観たら終わりで、わざわざシナリオ本を出しても売れな時代に入っていたのだろう。
さて、本作は第一回が際立って素晴らしい。
一人の中年男(陣内孝則)が電車にも乗らずにホームにぽつんと立っている。
そのしぐさと雰囲気が何やらおかしい。そのおかしさにほとんどの乗降客は気づかない。しかし、気づいた二人がいる。独りは若い女性(仲間由紀恵)、もう一人は若い男性(加瀬亮)である。
中年男はホーム上でゆっくりと身を翻してよろめきながら、やって来た電車に飛び込もうとする。それをお互い知り合いでもない若い男女が身を挺して止める。若い男性は中年男をやむをえず殴り倒して、ホーム上に一緒に崩れ落ちる。女性も手で彼らを支えるようにしていたため同じように崩れ落ちる。自殺は食い止められる。
駅に駆け付けた警官に対しては、中年男は助けられたにもかかわらず、自殺する気などはこれっぽっちもなかったと言いのけ、二人を責め立てる。
しかし、警官は二人の若い男女には善意があったこと、尚且つ中年男に対してもある種の勘が働いたことで、三人を別れさせる。
後日、中年男は警官を交番に訪ねて、あの時の自殺願望が事実であったことを打ち明け、二人に詫びたいために再会したいと願い出る。
警官は公務でそんなことはできないが、私事として引き受け、三人の再会の場を設定する。
その再会の場で、中年男は二人に詫び、感謝も申し述べた上で、どうしても解決できない疑問を二人に打ち明ける。
「私はあの時、ホームの、むしろ線路から離れたところに立っていました。なのに、どうしてお二人は私が死のうとしていたと分かりましたか」
女性は「どうしてだか・・・」と返し、男性は言うべき言葉もないため無言のままだ。
警官が口をはさむ。
「オーラが出てたんだ、マイナスのオーラが」
それは中年男を納得させない。というよりも、彼には確信があった。
「もしかして、お二人とも死のうとした経験があるんじゃないのかと」
第一回のクライマックスである。
私は、このセリフに完全にやられた。
こんなドラマのオープニングを観たことはなかった。
助けられた者も助けた者も実は深く深く傷を負っている。ただの善意などではない。誰にも打ち明けたことのない深い傷は未だに癒えていない。負った傷はマイナスにはなってもプラスになることなど想像は出来ない。しかし、それが人を救うことのできるキッカケになった。
それは、ありふれた奇跡である。
もちろん、作者はこのタイトルをそんな風に解説などしていない。視聴者であり山田太一ファンの端くれである私の勝手な、拙い思い込みである。
しかし、その後、ドラマはやや中だるみとなる。
そうして、最終回。
若い男女がそれぞれ過去に自殺未遂の経験があることは明らかになっている。
しかも、女性の側は子どもを産むことができない身体になってしまっている。その二人が結婚を決意する。
お互いの家族がささやかな食事会の場を持つ。
その場での祖父(井川比佐志)のあいさつがいい。
孫が引きこもりの時期から大きく変貌を遂げ、祖父をなじるまでに成長したことを語る。孫が人としても、彼を取り巻く環境もまだまだこれからの展望はあると語る。少なくとも今はかつての敗戦直後の日本の状態のような「どん底」の時代にまで落ちていない・・・といった自身の幼少期のこだわりも含めて語る。
青年が祖父をなじったのには、わけがある。
青年の父親(祖父にとっては息子)が別れていた元妻と復縁し、家を出て行った後、離れの小屋のような仮住まいに住んでいる職人(祖父は左官の親方で、実は孫の彼も祖父の許で働いている)が、出稼ぎの身からこちらに定住し、妻子を呼び寄せたい。ついては、その妻子ともども親方(祖父)の母屋に住まわせてくれないだろうかという願いを申し出る。しかし、祖父がそれを断ったからだった。
祖父であり左官の親方でもある老人は、「いつのまにか家を取られてしまうことになる」と用心しているのだ。更には「他人を信用し切らないことを信条に生きて来た」と孫に語る。
「そこまで他人を信用できないのか」と孫は祖父をなじったのである。
中年男は、終盤で産んだ赤ん坊を捨てようとしたものの思い切れず立ち戻った若い女性を養女として乳幼児も養い、一緒に暮らす。祖父は職人の家族と共に心を許し合い暮らせそうである。
そうした彼らと着かず離れず生きて行く若い男女は夫婦である。
妻子を失くした中年男の家族としての再出発が、また今後も孫は生まれないが、弟子職人の家族は子も同然、その子は孫も同然になって行く老人の晩年が想像される。
子のない夫婦は多いが、養父と養女・養女の子という家族、更には血は繋がらないが孫同然の子どもたちと一つ屋根の下に暮らす老人の「家族」は未だ少数派だろう。
そんな家族があったっていいじゃないか。それも普通じゃないか。
そんなささやかな提言を山田太一はしているように思う。
ただし、不満は残る。
養女とその子との三人写真に収まる時の中年男は一言、
「俺、一人じゃないよ」
と言う。
ドラマの最終盤の最後のセリフはこれである。
何がどう不満なのか。
いや、一人だっていいじゃないかと思うのだ。
むしろ、今時、単身家族は増えている。
一人でいい。一人でもいい。でも時には誰かとゆるやかに共同生活も・・・。
山田太一は、連続ドラマを書いて行く際、初めから結末など決めていないと語っていた、もしくは書いていたという記憶がある。本作も例外ではなかったらしい。
だから・・・・
ここからは、かなりおこがましいのだが、最も謎めいていて、まるで展開の読めない第一回のクライマックスを前提にした上で、ファンの端くれである自分が、その後の異なる展開を好き勝手に想像してもいいのだ。
うーむ。
しかし、・・・一線級で書き続けたシナリオライターの、しかも大御所の作品である。やすやすと違う筋書きなど思いつかないのだろうが。