明治44年、1911年作。
過去に何度も読んでいる。
好き勝手に書き散らした中で、かつて「鏡花入門」としては「高野聖」は不適当であり、最適作は小説では「朱日記」、戯曲では「多神教」であると書いたこともあった。
したがって、本作もタイトル名そのものをテーマにしたと思い込んでいたが、そうではないと気づいた。
「妖しの火」というテーマで書いていた。
今日・・・と言いつつ、既に書き上げた頃には時計が回っているので、昨日のことにおそらくなるのだが、改めて味読してみた。
短篇ながらクライマックスでの高揚感が見事である。
そこに至るまでの鏡花自身の悪乗りぶりも極まっている。悪乗りぶりという点では、「眉かくしの霊」のあの長広舌や「山海評判記」でのクライマックスでの同業者である他の作家たちに実名を挙げて呼びかけ、強引に描写して行く様なども思い出される。
それにしても・・・。
一人の女が少年に言うのだ。
「私があるものに身を任せれば、火は燃えません。其のものが、思の叶はない仇に、私が心一つから、沢山の家も、人も、なくなるやうに面当てにしますんだから」
そのために「城下」が焼かれるのである。
とすれば、女が身を任せることを強いられ、それを拒んだ相手というのは・・・人ではない。
俗世の権威、権力を笠に着た者ではないのである。
これまで何度も繰り返し読みながら、私は勘違いをし続けていた。
女が身を任せる相手は人間とばかり思っていたのだ。
しかし、そうである以上、女の決心は更に光彩を放つことになる。
「殿方の生命は知らず。女の操といふものは、人にも家にも代へられない」
つまり、女は魔界の者への人身御供となることをきっぱりと拒んだのである。
他の多くの作品群の中で、あれだけ魔界の力の凄絶さを描き続けている鏡花が、他方では、その魔界の力が一人の女の決意の前に通じないことを描いている。
これはどういうことか。
一人の女の操は、魔界の上にある。
そのことを踏まえて、例えば戯曲「多神教」を考えてみる。
確かに、姫神の力は凄まじい。俗世の男どもを片っ端からフクロウに変えてしまうほどである。
しかし、その力はそうしたクズ連中の男どもに対して発揮される一方で、一人の女の執念を実らせるためにも発揮される。
その意味で言えば、「多神教」の何が主題なのかと言えば、女の執念、丑の刻参りに藁人形に五寸釘を打ち付ける程の、自分をなぶりものにして捨てた男への復讐の念なのであり、姫神の役割はその介添え人としての魔界の力の発揮なのである。
女の迷いのない執念を実らせるために姫神は姿を現した。
更に言えば、「多神教」「夜叉ガ池」の姫神や魔界の女たちは、主人公である女の背後に同列線上に控え、まします存在である。
その絵柄は「書かれなかった歴史」でもある。
もちろん、「多神教」のお沢も、「朱日記」の姉さんも、その胸の内は「書かれることのない歴史」である。
そうした視点に立てば、本作は他の作品群とも全く矛盾しない。鏡花世界の正攻法であり、王道を往く作品である。