「生きていることの実感の希薄さ」を取り戻すべく、私は四年前にトライクに乗り始めた | 恋着、横着、漂着 遊び盛りゆるゆるのびのび60代

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 このアメーバブログには「アクセス解析」があって、自分のいつのどんなブログ記事が読まれたかを知ることができる。

 で、時折、目にするのは直近の記事ではなくて、数年前の記事へのアクセスである。数年前の記事だから、自分でもどんなことを書いたのかまるで記憶がないこともあって、気分次第でついでにその記事を自分で読み返す時がある。

 

 その中に四年前の一、二月の記事がいくつかあった。

 一つは、諸富祥彦の『「本当の大人」になるための心理学』についてのものだった。

 そこで、自分は本書の指摘にあった「承認欲求」に餓えているかのようなSNS症候群の人々に対しては冷ややかに見る一方で、「生きていることの実感の希薄さ」というもう一つの指摘には虚を突かれたということを書いていた。

 

 それは、この頃、吉村昭の『漂流』を再読する中で気づかされたことでもあった。

 この小説の再読は(もし、今の今、自分が同じように孤島に取り残されたとしたら、どれくらいの期間、生きのびられるのだろうか)という、素朴で他愛のない自問を引き出し、果ては(「鳥島ほったらかしツアー」などというものはないのだろうか)だの、(一度くらい、鳥島に行ってみてえな)という妄想も含んだマヌケな願望も引き出したのだった。その妄想、願望は、現在、鳥島への立ち入り禁止とアホウドリの激減という冷厳な事実によって、あっけなく消えたのだったが(笑)。

 

 しかし、そんなマヌケな妄想、願望は消えても「生きていることの実感の薄さ」という問題、いや、私にとっての課題と言うべきなのか、これは常にとは言わないが、何かにつけて自分に突き刺さって来るのだ。

 そうした中で、私は「中華トライク」という、オールメイド・イン・チャイナのホンダ・モンキーもどきのトライを買ったのだった。

 四年前の二月に走り始めた頃は、飯能市と秩父市の境にある正丸トンネルの長さにビビりながら走り、芦ヶ久保の道の駅まで辿り着いて満足している。そのレベルだった。

 今や自分の二台目のマシンはより高い性能と快適さを増している。いや、一台目とは比べ物にならないほどと言えるだろう。

 しかし、一方で「生きていることの実感」の濃密さに浸れているだろうか。

 うーん・・・。

 慢心とまでは言わないが、濃密ではない。

 なぜなのだろうか。

 一つは、ここしばらくずっと文字通り「未知の風景」に出逢っていないのだ。そして、もう一つは、そのための長い距離を走っていないのである。

 「未知の風景」は、風景だけに留まらない新しい何かを自分にもたらしてくれるのだ。

 初めて一台目の相棒と河口湖に向かう中、あとわずかという手前で道を間違えて少しの間、迷子になり、歩道に乗り上げて停め、バックパックからツーリングマップルを取り出して確認をしている最中、(何やってんだろうねオレは)と自分に呆れながら、楽しくて楽しくて仕方なかった。ニヤニヤが止まらなかった。

 そんな新鮮な体験を最近していない。

 

 うーん・・・。

 初めて走る道じゃないとなあ。

 実は小林一茶に関する本を読んでいて、記念館が信濃町にあることを知った。調べると雷電為衛門の記念館がある東御市の道の駅から75キロ程先である。一泊ソロツーリングには丁度いい。

 これとは別に、かなり前から、同じ長野県の奈良井宿が鏡花の「眉かくしの霊」の舞台であり、一泊ツーリングに丁度いいと見込んでいる。

 勝手流「文学ソロツーリング」を自分企画として進めるのもいいかもしれない。

 

 さあ、そろそろ、この企画の実現を目指しましょうか。