「近代日本の原点は文化文政にあり」・・・梅棹忠夫の俯瞰力 | 恋着、横着、漂着 遊び盛りゆるゆるのびのび60代

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2年早く退職して機能と効率のタガを外すことが出来ました。
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 『梅棹忠夫著作集』を久しぶりに手に取った。

 

 ちなみに私が手に取る方法というのは、次のとおりである。 

 畳敷きの自室のパイン材の棚には全巻を置いている。ただし、棚に目をやっても背表紙はまるで見えない。100均で買った不織布のボックスの中に背表紙が見えるように縦に10冊程度入れて、引き出せば目当ての巻が見つかるようにして置いている。これとは別に、居間の書棚には『年譜・総索引』の一巻だけを置いている。で、その時々に気になるキイワードを「総索引」から検索してゆく。そのキイワードが最も集中している巻が見つかったら、その巻を自室の不織布ボックスから取り出す。このやり方で今のところは問題なく、実にスムーズに進む。

 

 さて、どこかの巻で、梅棹忠夫は「明治維新はまぎれもなく市民革命だった」と書いている。

 そのくだりでの詳述はなかった。どの巻が忘れたが、その一文に接した時、それは私の宿題になった。こりゃあ遠からずキチンと知り、考えるシロモノだなあと。

 そのことを思い出して、「市民革命」というキイワードが最も多く出て来る巻を「総索引」で当たってみた。結果、第13巻『地球時代に生きる』の数頁であると分かったので、読んでみる。

 原本は『地球時代の日本人』(1974年)という文庫で、その中の「日本の近代と文明曲線」という章である。

 なお、「アニミズム」について集中しているのも、同じ『地球時代の日本人』の「人の心と物の世界」の章であることに気づいた。つまり、私はその時々の気分にまかせて、かなりいいかげんにつまみ読みをしているのだ。しかし、こうした読み方、気になるキイワードの最も集中する巻の中の一章分程度を読んでみるという読み方は、案外、悪くはないと思っている。

 というのも、梅棹忠夫の持論の展開というのは、実に多彩であって、一冊または一巻分が一つのキイワードもしくはひとつのテーマにとどまって書かれているということは稀なのである。何せ、この巻にしても、タイトルは「地球時代の日本人」のありかたという、更に大きなテーマなのだ。

 

 少々、寄り道が多くなった。

 本論に入る。

 一読して、唸った・・・というのが率直な感想である。

 梅棹は「近代日本の原点は文化文政時代にある」と明言している。根拠も明確である。当時の日本人の識字率50%という到達、100万人都市江戸をはじめとする各地における大都市の成立と大量消費社会の「原型」の出現、工業は手工業またはマニュファクチャーながら大規模生産に移行、それらを支える藩という地方分権体制の確立、その藩にはよくトレーニングされた官僚群がいて小国家経営のノウハウが行き届いていた・・・。

 現代の企業組織も、実はこの時代に原型がある。

 「藩」は1850年以前までは「家中」と言うのが通例で、現代の「頭取」などの役職名もこの時代が始まりだった。組織内の人間関係も「藩士」が「会社員」となっている、など・・・。

 

 だから、明治維新は出発点でも何でもなく、文化文政以来の社会的・文化的変革の進行によってたくわえられたエネルギーによる、ひとつの政治的結末であったのである、と。

 

 ここで、私は数冊の歴史小説を連想した。

 飯嶋和一の『雷電本紀』と『始祖鳥記』、吉村昭の『漂流』『敵討』『アメリカ彦蔵』『大黒屋光太夫』『間宮林蔵』などである。これら実在の人物はいずれも、この時代に生きた。近代日本の夜明けにあって、その激流の中でそれぞれが固有の光を放った。その激流は一見、濁流や傍流ともとられかねないが、彼らを深く歴史的存在として見れば、近代化に向かう「社会的・文化的変革」の大いなるうねりに時に飲み込まれ、時に浮かび上がり、時に波がしらにも立ち、そして消えて行った人間たちなのだ。

 

 青年期の勝海舟が手持ちの金もないため熱心に「蘭学」書を立ち読みするしている姿を豪商が見かけたのも、この激流を象徴する小さな一コマだったのだろう。面会した豪商は、勝の向学心のみか、その博識ぶりに驚嘆し、蘭書購入のための資金提供を申し出たというものである。この頃、封建的身分制度はすでに流動化状況に入っていたのであり、傑出した人物を階級を超えて支援する先見的な資本家が立ち現れていたのである。

 

 梅棹忠夫の本論は、そんな感慨にもふけることの出来た「近代日本論」として実に刺激的である。

   

 なお、明治維新は「ひとつの政治的結末」に過ぎない以上、他のいくつもの経過があり、その後、いくつもの結末が模索されて行ったわけである。

 西郷の下野と西南戦争、秩父事件、「不平士族」たちの反乱、自由民権運動など・・・。つまり、「明治維新」そのものは本流ではないと言ってもいいのだ。

 ざっくばらんに言えば、明治維新は近代日本の原点でもなければ「政治のお手本」でも何でもない。しかし、「文化文政の時代」は社会と文化の原点であり、お手本が無限に埋もれているのだ。