同好の士との接点は・・・ | 恋着、横着、漂着 遊び盛りゆるゆるのびのび60代

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2年早く退職して機能と効率のタガを外すことが出来ました。
人生をゆるゆるのびのびと楽しんで味わって行きたいと思う60代です。

 このへぼブログを書きながら、自分で付けたハッシュタグつながりで、他の方々のブログを少しばかり拝見する。

 そのハッシュタグ検索も、実は「ドール」と「トライク」のほぼ二つだけである。

 自分のルパン三世フィギュアに対するこだわりの延長で「フィギュア」のハッシュタグを付けて、その上で検索してみたことがあるのだが、結果、「フィギュア」のほとんどは「フィギュアスケート」になっていて、やたら羽生結弦選手が登場する。仮面ライダーだのウルトラマンだののフィギュアは出て来ないということが分かったので、「フィギュア」のハッシュタグを付けるのはやめた。

 

 「ドール」で検索すると、オリジナルのコスチュームやドールハウス一式の製作に勤しむ方々がいらっしゃる。そのこだわりと追求力と腕に感嘆させられる。何せ、自分はと言えば、100円ショップのアレコレを組み合わせて接着したり、出来のいいカプセルトイの品々をそのまま使わせてもらったりというレベルだから、月とすっぽんのようなものである。

 

 「トライク」も、それはそれで、自分の中華トライクとは違って、高額のカスタム・トライクだったり、その他色々ある。

 

 で、感嘆したり、圧倒されたり、おっ! どんな風に・・・? などともう少し拝見させてもらったりするのは心地いいのだが、ハッシュタグとは関係のない自分の日常を愚痴も含めてダラダラと書き連ねられるとウンザリしてしまう。もちろん、そうした記事はやり過ごし、訪問には至らないのだが。

 実際の人間の付き合いも当然ながら、たかがブログとは言え、他人との心地いい距離感はお互い持ちたいよなあ。

 

 現実的な人間関係上のつきあいでは、私のオタク趣味とリンクする同好の士は一人である。ここしぱらく、コロナ渦以降は会っていない。

 トライクまたはバイクつながりでは、メンテナンスをしてくれる同僚が一人いて、後は道の駅で初対面のバイカーから話しかけられ、少しばかりやりとりするだけである。

 

 それで充分である。

 お互い私生活にまで立ち入ってベッタリの関係などという相手はいない。

 同好の士とも、そんな風に適度な距離感でアッサリ付き合っていければいい。特にトライク、バイク絡みでは恒常的に誰かとやりとりしたいなどと思わない。

 

 鈴木大介氏の『脳が壊れた』の中には、「親友は資産」という独特の言い方で、彼らに救われ、助けれらた数々の体験が書かれている。妻の脳腫瘍の発覚と手術、その後の良好な経過や自身の脳梗塞後の紆余曲折の中で、そうした親友たちの心遣い、助力がどれだけ心強いセーフティーネットだったかと。

 

 このひとくさりを読んだとき、俺にはそうした関係の親友はいないなと正直、思った。

 うーん。そういう資産・・・言い方を換えれば「宝」だろう。それはないなあ・・・と思う。まあ、とりあえず家族、既に成人した子供たちはそれなりに助けてくれるだろうが、それでも、自分たちの生活の方が大変なようであれば、私の面倒、世話どころではないだろう。

 でも、そういう万が一の時のために、友人、親友を作るわけではないからなあ。

 

 とりあえずは、適度な距離感であっさり、すっきり。それでいいだろう。何か大事が起きたわけではないのだから。

 

 話が逸れるようだが、Facebookに登場する旧知の「友人たち」の記事の書き方に大いなる違和感を持ったことがあって、それ以降、敬遠し続けていることは既に何度となく書いて来た。

 実はつい最近も、同じようなことがあった。いや、Facebookそのものは覗かない。かつての同窓生が亡くなっていたことを知り、それを旧友に知らせた。その旧友とはショートメールのやりとりを年に何度かしている。彼は同窓生の逝去を「知らなかった」と返信して来た。それはいいのだが、彼の父が大往生したばかりということも文面には添えられていた。で、こちらも「ご愁傷様、でも大往生で云々」と返信の返信をしたのだが、「納骨を終えたことも含めてFacebookに書いたから」と彼は更に知らせて来た。

 いや、実父の逝去と納骨をFacebookで・・・? 

 私の持った違和感は、それだった。

 彼は還暦過ぎて独身のままである。好きで独身を通して来たのではないことは知っている。で、ある年から賀状の返信をくれないようになった。Facebookが代わりになったのである。元々、筆不精だったようにも思えるが、彼には「いいね」が快感で、賀状は不要になったようだった。

 還暦過ぎの独身という言い知れぬ孤独感も忘れられるのだろう。

 いや、これは彼に対するとんでもない偏見か。世間の独身者一般に対するハラスメントでもあるだろうか。

 しかし、ハラスメントの要素はあるにしても、この指摘は当たらずと言えども遠からずと思う。

 

 そこで、更に意地悪く(?)思うのだが、ごくごく少数の知人以外、知らせる必要もないあれこれを多数のネット上の「友人」に知らせることで、一体、孤独感が失せるのだろうかということである。

 私は相当、傲慢なことを言っているのだろうか。

 或いは、見当はずれなことを?

 尚且つ、ここしばらく、私が追求している「孤独の心地よさ」は、孤独でも何でもない日常があるから、「恵まれた還暦過ぎ」の身で、無責任な妄想に浸っているだけなのだろうか。

 それでも。と思うのである。

 他人に知らせる必要のない私事は数えきれないほどある。「ちょっと聞いてほしい」ということがあるなら、(この人にこそ)

という特定の相手に対面して聞いてもらうべきだ。その内容や傾向が病的であるとするなら、心療内科、カウンセリングに向かった方がいい。

 ストレスや苦しさはそうするとして、愉しさはどうか。

 自分で噛みしめることの方が先だ。誰かに共感してもらう必要はない。それに、そんなに簡単に他人は自分の楽しい対象や楽しみ方に付き合ってはくれない。無心になれる時間の方が宝だ。

 それに、ネット上の「友人」は、いざという時、助けてはくれない。そんな義理もない。対面もしていないし、近くにもいない。

 ネット上で自分の私事、私生活、内心のあこれを披歴吐露して、見せかけの「共感」が返って来たとしても、そのことで「孤独感」は和らぐかも知れないが、「空虚感」は埋まることはない。

 生きていることの充実とはまるで無縁であると思うのだが。

 

 

  ※参考文献 諸富祥彦『孤独の達人』