黒澤・三船ファンにとって「蜘蛛巣城」はどんな映画か? | 恋着、横着、漂着 遊び盛りゆるゆるのびのび60代

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  黒澤映画の内、私が持っているとびきり画像も音質もいいクライテリオン版ブルーレイは「七人の侍」「蜘蛛巣城」「隠し砦の三悪人」「用心棒」「椿三十郎」の五本である。

 その内の「蜘蛛巣城」については、かつて、そんなに面白くないと思っていた時期があった。同じようなファンのある知り合いが「『蜘蛛巣城』は・・・あれは・・・つまらないですねぇ」と言われ、私は「そうですねぇ」と返した記憶がある。

 その知り合いは、やっぱりご多聞に漏れず、「七人の侍」や「用心棒」を想定して言っていたのだと思う。

 それでも、それからしばらくして、やっぱり面白えよなぁと思い直したのである。

 なぜか ? 

  増村保造の言う通り、三船演じる日本版マクベスがカッコイイからである。

 武将として見事に造形された鷲津武時は、同じ武将のキャラクターでも「隠し砦」の真壁六郎太とは違うし、他に無い見事に独自の造形性と緊迫感がある。しかも、あの矢に射抜かれながらの、悪魔のように兵士たちの群れに迫る死の淵の形相はとんでもないスケール感があって、他の俳優は真似できない。

 増村の言う、胸のすくようなヒーローではないにしろ、やっぱりカッコイイのである。

 しかも、三船がマクベスをやってくれたのである。

 できれば、「酔いどれ天使」の頃にハムレットを、それに「赤ひげ」の頃にオセロをやってほしかったけど。

 

 その「蜘蛛巣城」も、確かに増村の言う通り、マクベスの心理に分け入ったりなどしない。

 魔女たちは、糸比引き車のバアサンだったり、幻の武者だったりという和風の物の怪に見事に形象化し直されていて、切れ味よく終わっている。 (今、『全集 黒澤明 第四巻』の「蜘蛛巣城」の部分を当たってみたら、その「幻の武者」は三人いて、何と木村功と宮口精二と中村伸郎が演じていた。いやぁ、中村伸郎は分かっていたんだが、木村功にも宮口精二にも気づかなかったなぁ。ぜいたくな配役ですね。)

 

 例えば、マクベスの内面を描くのであれば、あの三人の武者やバアサンの物の怪がフラッシュバックで脳裏をよぎり、白日夢のようにマクベスを責め、大殿を刺殺して会心の笑みをもらす自分すら見てしまう ・・・ といった手法はアリだろう。でも、そんなことやっていたら、増村の言うようにスピード感が落ちるし、そんなものを観客は求めていない。

 この映画は、大衆娯楽時代劇というよりは「文芸モノ」時代劇であり、世界に通用する「マクベス」なんだろうが、やっぱり手法はいつもの黒澤流活劇スタイルなのだ。

 

 そもそも、それは黒澤があっけらかんと語っている。

 ロンドン、パリに本作の上映会と共に来賓として迎えられた黒澤は、イギリスの名優ローレンス・オリビエに聞かれたという。

 「おまえのマクベスは怪物すぎて同情心がわかない」と。

 これに対して黒澤は

 「軍人によくある単純で正直な人物があやつられて柄にもなく謀反気を起こした悲劇なんだ」と。

 

 いやいや、実に単純明快ですね。ドロドロしていませんね。

 だから黒澤明なんですね。

 

 最晩年の木下順二が、マクベスの翻訳と解釈に尋常ではない熱を持っていたのだが、その木下の「マクベス」論を好き勝手に要約解釈させてもらうと、「マクベス」は歴史にもてあそばれ、転落して行く自分をまるで他人のように冷え冷えと見なければならないという無惨さが一貫してあって、それは、作者シェイクスピアの後期作品を象徴するもので、その背景には資本主義が黎明期にありながらすでに人間を押しつぶして行くという閉そく性が歴史的必然として本質を露にし始めた時期に当たっていた ・・・ なあんて、むずかしいことを書いている。ついでに言えば、同じようにシェイクスピアについて造詣の深かった中野好夫も、同じような視点で「オセロ」について書いていた。

 

 そんな得体の知れない、作家や評論家がメスを入れていくようなやり方で、黒澤明は「マクベス」を読まない。

 やっぱり、増村の指摘するように、ひたすらいい画を描きたい画家なんでしょうね。