村松定孝氏による鏡花本の紹介にかこつけて、こんなタイトルの雑文を書くのは気が引ける。
が、一方で、その男を未だに許さぬ私自身の思念と憤懣は厳然として今もあり、おそらくは一生消えない。
あの時、生まれた次女は二十歳を過ぎた。 健やかに育ってくれた。
その次女の誕生した直後、男は私の仕事上のミスを咎め、ペナルティと称して社会保険証を手渡さなかった。
怨み骨髄に達したのは紛れもなく、その瞬間だった。
それからしばらくして私は退職した。その決断は私がそれまで生きて来た中で最も解放感を伴うものだった。幸いにも、その後、私は至ってまともな定職に就くことが出来、今日に至っている。
しかし、私の念は未だに生き続け、糞尿以下のその男を自滅に至らしめるるよう作用しているのではないか?
念は既に私のものであって、私のものではない。
男は「深沙大王」に登場する、あの男のように自滅するだろう。
醜く、悪臭を放ち、七転八倒しながら地獄に落ちて行くだろう。
いいや、この世そのものが地獄に映るだろう、奴の目には。
それを私は見届けなければならない。
糞尿供養である。