今日は、これまでの寒波がどこかに去って、春が顔を出したような暖かい一日でした。
ああ、やっぱり春はいいですね。このままこのよう気がずっと続けばいいのですが、今年の冬はそう簡単に引き下がりそうにありませんものね、
私は土日と2週間ぶりに母のところに行ってきました。先週も行く予定にしていたのですが、急遽撮影がはいって、ドタキャン。特に先週は弟と打ち合わせて一緒に行く予定にしていたところ、母の方で「食事の支度も何もしてやれないから、どうせ来るなら私と一緒の方がいい」と言うので、気を利かせて弟に電話をかけて一週間延ばさせたところ、母の方では私にはそういいながら、それでも「きっと息子は来るだろう」と考えたのか、それとも「来て欲しい」と言う願望の現われなのか、先週の土曜の夜にはお米を3合も砥いで(日ごろなら精々1合か2合)、玄関の鍵も開けて待っていたとか。年寄りは(私も年寄りですが)、口で言うことと心の中では随分矛盾があるのですね。私はよく母とけんかをしますが、その原因の一つは、この「矛盾」にあるように思います。表面的な言葉だけで判断して、それに振り回されて、ついつい相手の思う壺にはまってしまって、大声で怒鳴ったり、相手を罵倒したり。今回もそのことで随分母を詰問しましたが、母を責めながら理解できたことは年寄りの心の寂しさ。母の気持ちの中では「来ても何もしてやれない」という思いと、「でも来て欲しい」という相反した思いが複雑に絡みあっていたのだと、反省することしきり。そんなこと、日ごろ介護の映像を創っているものとしてはよく理解しているつもりですが、身内となると頭の理解はどこかに忘れ、ついつい表面的な言葉をそのまま受け取って、それが原因でよく喧嘩になります。それでこれからは少し翻訳が必要かなと、「来なくていい」は「来て欲しい」「死にたい」は「生きたい」、「なんて親不孝な」は「なんて親孝行な・・」と、自分の都合のいいように翻訳するのですが、心の中を読み取る技術(気持ち)を高めなくては・・
それにしても、92歳。頭もしっかりしていて、経済的にも自立していて(もちろん僅かな年金が主)、病気にもならず、元気にしていてくれるのですから、子どもにとってはこんな嬉しいことはありません。
若い頃は、正確が全く違っていて相性が悪く(?)、そんなに近いところにいた母ではありませんが、年老いた今の母を見ると、既に亡くなって20年近くになる父を介護していた頃父のことがとっても愛おしく思えたように、近頃は、年老いて直元気に頑張っている母のことも、なんとなく愛おしく思えるようになってきたから不思議です。矢張り大切な身内なのでしょうね。一人暮らしはさびしいことが一杯あると思いますが、美醜の全てをさらけ出して、お互いのわがままも、わずらわしさもみんな受け入れあって向き合える唯一の人かと思うと、どれだけでも長生きをして欲しいと願わずにはいられません。本当は唯一の休みの土日は映画を観たり、音楽会に行ったり、家の掃除をしたり…自分の時間をもっと使いたい気持ちもありますが、どんなに前夜徹夜をしても、仕事の無い限りは母の家の方に足が向いてしまうのは、少しでもいい状態で長生きして欲しいという娘心なのでしょうね。
母の家では、土日の2日間、普段家では殆ど何もしない家事と野良仕事にたっぷりと時間がとられます。
今は冬なので雑草は余り生えていませんが、風にとばされたビニールをかぶせなおしたり、絹さやのツルを心木に誘導したり、春先に種を播くための土壌を耕したり、今回も寒波の冷たい風の中、せっせと農作業を楽しんできました。多分これが私のとっての唯一のレクリェーションなのでしょうね。
2日間パソコンから開放されて、体を一杯に動かして…でも帰宅したら、何をさておいてもその瞬間からパソコンの電源を入れるのですから、やはり私もかなりの現代人。パソコン依存症にならないように気をつけなくてはいけません。
とはいいいながらも、今日は朝からずっと、たまっているメールの返事を書いたり、新しい作品のシナリオの書き直しをしたり、韓国語版の認知症の映像の日本語版作成の準備をしたり、ほぼ一日中パソコンとにらめっこ。
幾分リフレッシュした目もまた元に戻ってしまったようです。
話は替わりますが、夕食の時間HNKのテレビを見ていたら、広島県光市の母子殺人の犯人に差し戻しの最高裁で死刑の判決が出たとの報道がされていました。この事件は殺害された若いお母さんと赤ちゃんや、ご主人の本村(?)さんには本当にお気の毒な事件ですが、本当に死刑が妥当なのかどうなのか、ふに落ちない気持ちがしてなりません。私はもともと死刑廃止論者で、どんなことがあっても死刑は絶対に止めなくてはいけないと考えている一人ですが、特に今回の事件をずっと見ていて思うことは、余りにも軽々しく重刑を科しすぎているのではないかと思えて仕方ありません。元少年がどうしてあんなに残虐な事件を起したのか、本当にその真相を裁判は明らかにしたのか?そもそも憎しみが本当に重刑で償われるのか?私たち人間には「死刑」と言う罪を科する権利があるのか?国家は国民が安全に暮ら競るための機関だとしたら、もっと寛容の厳しさを持たなくてはいけないのではないか、母子殺害事件の死刑判決のニュースを聞きながら、何か目に見えない怖いものが私達の周囲に漂っていると思わざるを得ないような、嫌な気持ちになりました。多分多くの方は私の思いに共感される方は少ないかもしれませんが、私の今の気持ちは被害者となられたご主人よりも元少年に大きく傾いているのはどうしてなのか、もっと深い所で私たちは社会のありようをしっかり見ることが必要なのではと、どうしても思わざるを得ないのです。
ああ、やっぱり春はいいですね。このままこのよう気がずっと続けばいいのですが、今年の冬はそう簡単に引き下がりそうにありませんものね、
私は土日と2週間ぶりに母のところに行ってきました。先週も行く予定にしていたのですが、急遽撮影がはいって、ドタキャン。特に先週は弟と打ち合わせて一緒に行く予定にしていたところ、母の方で「食事の支度も何もしてやれないから、どうせ来るなら私と一緒の方がいい」と言うので、気を利かせて弟に電話をかけて一週間延ばさせたところ、母の方では私にはそういいながら、それでも「きっと息子は来るだろう」と考えたのか、それとも「来て欲しい」と言う願望の現われなのか、先週の土曜の夜にはお米を3合も砥いで(日ごろなら精々1合か2合)、玄関の鍵も開けて待っていたとか。年寄りは(私も年寄りですが)、口で言うことと心の中では随分矛盾があるのですね。私はよく母とけんかをしますが、その原因の一つは、この「矛盾」にあるように思います。表面的な言葉だけで判断して、それに振り回されて、ついつい相手の思う壺にはまってしまって、大声で怒鳴ったり、相手を罵倒したり。今回もそのことで随分母を詰問しましたが、母を責めながら理解できたことは年寄りの心の寂しさ。母の気持ちの中では「来ても何もしてやれない」という思いと、「でも来て欲しい」という相反した思いが複雑に絡みあっていたのだと、反省することしきり。そんなこと、日ごろ介護の映像を創っているものとしてはよく理解しているつもりですが、身内となると頭の理解はどこかに忘れ、ついつい表面的な言葉をそのまま受け取って、それが原因でよく喧嘩になります。それでこれからは少し翻訳が必要かなと、「来なくていい」は「来て欲しい」「死にたい」は「生きたい」、「なんて親不孝な」は「なんて親孝行な・・」と、自分の都合のいいように翻訳するのですが、心の中を読み取る技術(気持ち)を高めなくては・・
それにしても、92歳。頭もしっかりしていて、経済的にも自立していて(もちろん僅かな年金が主)、病気にもならず、元気にしていてくれるのですから、子どもにとってはこんな嬉しいことはありません。
若い頃は、正確が全く違っていて相性が悪く(?)、そんなに近いところにいた母ではありませんが、年老いた今の母を見ると、既に亡くなって20年近くになる父を介護していた頃父のことがとっても愛おしく思えたように、近頃は、年老いて直元気に頑張っている母のことも、なんとなく愛おしく思えるようになってきたから不思議です。矢張り大切な身内なのでしょうね。一人暮らしはさびしいことが一杯あると思いますが、美醜の全てをさらけ出して、お互いのわがままも、わずらわしさもみんな受け入れあって向き合える唯一の人かと思うと、どれだけでも長生きをして欲しいと願わずにはいられません。本当は唯一の休みの土日は映画を観たり、音楽会に行ったり、家の掃除をしたり…自分の時間をもっと使いたい気持ちもありますが、どんなに前夜徹夜をしても、仕事の無い限りは母の家の方に足が向いてしまうのは、少しでもいい状態で長生きして欲しいという娘心なのでしょうね。
母の家では、土日の2日間、普段家では殆ど何もしない家事と野良仕事にたっぷりと時間がとられます。
今は冬なので雑草は余り生えていませんが、風にとばされたビニールをかぶせなおしたり、絹さやのツルを心木に誘導したり、春先に種を播くための土壌を耕したり、今回も寒波の冷たい風の中、せっせと農作業を楽しんできました。多分これが私のとっての唯一のレクリェーションなのでしょうね。
2日間パソコンから開放されて、体を一杯に動かして…でも帰宅したら、何をさておいてもその瞬間からパソコンの電源を入れるのですから、やはり私もかなりの現代人。パソコン依存症にならないように気をつけなくてはいけません。
とはいいいながらも、今日は朝からずっと、たまっているメールの返事を書いたり、新しい作品のシナリオの書き直しをしたり、韓国語版の認知症の映像の日本語版作成の準備をしたり、ほぼ一日中パソコンとにらめっこ。
幾分リフレッシュした目もまた元に戻ってしまったようです。
話は替わりますが、夕食の時間HNKのテレビを見ていたら、広島県光市の母子殺人の犯人に差し戻しの最高裁で死刑の判決が出たとの報道がされていました。この事件は殺害された若いお母さんと赤ちゃんや、ご主人の本村(?)さんには本当にお気の毒な事件ですが、本当に死刑が妥当なのかどうなのか、ふに落ちない気持ちがしてなりません。私はもともと死刑廃止論者で、どんなことがあっても死刑は絶対に止めなくてはいけないと考えている一人ですが、特に今回の事件をずっと見ていて思うことは、余りにも軽々しく重刑を科しすぎているのではないかと思えて仕方ありません。元少年がどうしてあんなに残虐な事件を起したのか、本当にその真相を裁判は明らかにしたのか?そもそも憎しみが本当に重刑で償われるのか?私たち人間には「死刑」と言う罪を科する権利があるのか?国家は国民が安全に暮ら競るための機関だとしたら、もっと寛容の厳しさを持たなくてはいけないのではないか、母子殺害事件の死刑判決のニュースを聞きながら、何か目に見えない怖いものが私達の周囲に漂っていると思わざるを得ないような、嫌な気持ちになりました。多分多くの方は私の思いに共感される方は少ないかもしれませんが、私の今の気持ちは被害者となられたご主人よりも元少年に大きく傾いているのはどうしてなのか、もっと深い所で私たちは社会のありようをしっかり見ることが必要なのではと、どうしても思わざるを得ないのです。