A pale view of hills
1982年カズオ・イシグロ 著
小野寺健 訳
ハヤカワepi文庫
映画が公開されるにあたり
再読しました。
カズオ・イシグロ本当に面白いです
そして本当に、残念なことに、あまり理解されていない。
字だけを追って表面を読んでいるだけでは、理解できる作家ではありません。
カズオ・イシグロの小説を読むポイントは、
unreliable narrator「信頼できない語り手」
人は自分に都合の悪いことは話したがらない。語りには嘘が混じっているし往々にして美化されている
「価値観の変化と混乱」
戦争による社会の変化によって地位を追われた人や、新しい考え方にとまどい反発する人の姿が描かれている
「行間を読め!」私が思うにこの三つですね。
「浮世の画家」では高名な画家というのがそもそも記憶の美化だし、
「日の名残り」では語り手の執事は立派な貴族に仕えたことが誇りだったが、主人は言うほど高潔な人物ではなかったし、女中との恋愛も勘違い。自分の人生を無駄なものだったと考えたくない語り手の創作に過ぎない。
「遠い山なみの光」でもまさに語り手が嘘をついています。悦子が娘ニキに語る過去に虚実が入り乱れているのです。ストーリーは
再婚した夫とイギリスで暮らす悦子
ロンドンから訪ねてきた次女ニキから
友人が悦子の体験を詩にしたいと言われ、
日本での生活を回想する
それは一時期親しくしていた友人佐知子とその娘万里子との思い出話だった
というものですが
なぜ「一時期」親しかっただけの二人について詳細に描写するのか
悦子は自身の過去を語りたがらなかった。
語りたくない過去があった
都合の悪い過去を「一時期親しかった友人の話」としているのです。
佐知子とその娘万里子はイコール
悦子と長女景子。
悦子は二郎との間に景子をもうけたが
やがて離別し、一時期苦境にあった。
経済的に困窮し、景子を大切にすることもできなかった
その頃の自分を佐知子として、もしかしたら本当にそう記憶してしまったのかも知れない。
辛いことから逃げる事、忘れる事は人間の生存本能だから
万里子は放置され、親の都合に振り回され、心を閉ざし、悦子の足に絡みつく紐に怯える。
もしかして佐知子(悦子)は万里子(景子)を殺そうとした事があるのではないか。足手まといになる子猫のように
アメリカに連れていかれた万里子は、実はイギリスで成長した景子であり、その後自宅にひきこもり、家を出た後に命を絶ってしまった。どうしても人生を立て直すことが出来なかった
悦子はその事実が辛くて、佐知子という人物を創作した
「ニキ、わたしには初めからわかっていたのよ。初めから、こっちへ来ても景子は幸せにはなれないと思っていたの。それでも、わたしは連れてくる決心をしたのよ」
また最後、悦子はニキに
「一度あそこに遊びに行ったとき」「あの時は景子も幸せだったのよ。みんなでケーブルカーに乗ったの」
その「長崎の港を見おろす丘陵地帯」稲佐に行ったのは、佐知子、万里子、妊娠中の悦子のはずなのに、
二回目には景子と行ったとして語られている。これは悦子の嘘の証拠であり、
重大なネタばらしのはずなのに、多くの人が気がつかずに読了してしまっている。
映画ではどう解釈されているのか、楽しみでもあり、不安でもある
ニキに渡した稲佐の写真には
「佐知子、万里子、悦子」ではなく
「悦子、景子」が写っているはず。
そう願っています。



















