「自分は仕方なく生きているだけ」

この手の”悩み”というか、”病み”というか、”身”の無い話の答えとしては、

「その通りかもしれないし、違うかもしれない」

つまり、結論はその時の自分次第。

答えの無い問い。

自分の存在とか、この世界の存在についての根源的な問いを自分なりに考え始め、哲学書を読んだり、ググってみたところで、そんな問いには答えなんて無いと書いてある。

そして続く。生まれてきてしまったことについて考える時間は無駄だから、もっと有意義なことを考えなさい。

 

自分という何者かと、いつ頃から真剣に向き合うようになったのかは覚えていないが、時間と経験とを重ねるにつれて自分のこだわりや行動を知るようになり、家庭や学校を通じて自分と他者の関係性を学び、色々な場面で自分とを比べることで、自分の立ち位置のようなものが形作られていった。

 

13歳頃には何をやっても心から楽しめなくなってしまった。

サッカー部の練習試合。技術だけでなく容姿も背丈も自分よりも優れている相手に競り合っている自分をなぜか馬鹿馬鹿しく思えてしまった日があった。球際ではしぶとく食らいつくプレイを自分の長所としていた。

ただあの日は、競り合うのを諦めてしまった。ここで競り勝ってボールを奪ったところで試合が終了すれば元の見劣りした自分と向き合わなければならない。一方の彼の日常は、こんな競り合いなんてちっぽけな経験としか思わないだろうと思える程の優れた容姿である。

自分は一体なんでこんな必死にボールを奪おうとしているのか?負け惜しみか?自分への苛立ちか?突然、競り合うことに意味がないように思えてしまった。

 

自分の存在が形作られて以降は、何に取り組んでも自信が持てなかった。自分の努力は、そちら側からすれば空気の読めない奴呼ばわりされる現実にうんざりしていた。

 

自分の選んだ生き方に悔いは1つも無い。すべて自分で決めてきたから当然だ。ただし、生まれながらの自分の性質には短所も多くあるから、この短所が無ければもっと違った道に挑戦していたかもしれないとか、人並みの思いやりや共感を持てたかもしれないと思う事はある。少なくとも、部活の練習中、顧問に「お前は猪八戒に似ている」と真顔で言われるような悔しい思いはせずに済んだはずだ。

 

さて、仕方なく生きている人生も40年になろうとしている。

13歳以降の自分は、夢や目標なんて何もなく、お腹が空くから食べ、眠くなるから眠る。興味のある本を読み、遊びたいから仕事をしてお金を稼ぐ。そんな生き方をしていた。

 

では40代も同じように仕方なく生きているだけでいいのか。

この問いは「自分は仕方なく生きているだけ」のものとは違うように思える。この気持ちと基本的には変わらないが、20代の頃と比べたら自分という者に慣れてきた感はする。これから何に興味を持ち、どれくらい経過すると飽きてしまい、何に対して反省するのかも分かってきた。

「どうせ生きていくのだから、何か目標を持って生きるのもいいかもなぁ」という1つの答えが出た。

 

これまで仕方なく生きてきた自分に、これから何を感じ、何を得て、何に共感するのか知りたい欲望が芽生えた。

 

おわりに

 

自分は仕方なく生きている。これは嘘偽りの無い正直な思いだ。ただし、だからと言って生きているのがつらいとは思っていない。食べる物は美味しいし、お風呂は気持ちが良い。毎晩ぐっすりと眠れる。お酒の誘惑もまんざら悪くない。

女の子は可愛いし、新しい本を読むと毎回何かを得たような気になれる。相変わらず頭の悪さは変わらないが。

生まれてきたからいまの自分が居て、与えられた容姿と性質を用いて今まで活動してきた。ただそれだけの話だ。

生まれるかどうかや容姿も将来的に備わるであろう才能も何1つ選べずに、「さぁ生きてこい」と肩を叩かれて始まったこの自分という人生。周りも同じようにスタート地点も容姿も才能もみんなバラバラ。この与えられた性質の自分と向き合いながら自分なりに考え成長させていく苦労は絶え間なく続く。

無理せずに。出来ることから始めよう。

 

ここまで素直に書くことも中々大変だ。話を膨らませてしまうと収拾がつかなくなるし、話題が重すぎてもいけない。

仕方なく生きていると言えることは、飾り気の無い素直な気持ちだと思ったので、あえて書いてみることにした。