御言 missing link Ⅱ まとめ   | 御言 missing link

御言 missing link

ブログの説明を入力します。

 文先生は、神様が準備してきたキリスト教基盤の上に立つことができず、1954年、文先生自ら世界キリスト教統一神霊協会を創設されました。以降、統一教会はキリスト教の使命を引き継ぐ第三イスラエルとして、理想家庭と理想世界実現という旗印のもと、時に多大な犠牲を払いながら、その活動を続けてきました。
 しかしながら、私達は、よくわからないまま、文先生の指示、そして、リーダーの指示に従い、その時その時、その指し示す方向を信じて歩んできただけでした。現在では、同じ教会員どうしでも信仰観や価値観、しいては思想に大きな違いが生じるようになり、それがいくつかの分派を形成し、その乖離は大きくなることはあっても近づくことは難しいように思われます。教会の中に発生した異質な意見に対し、それをよく議論して真理に近づこうとする努力は無価値なものとされ、言うとおりにしない異物は切り捨てるという方向に舵が取られ、その結果、教会の中は、疑問に思うことや批判的なことが全く言えないような環境となったように思います。基元節が過ぎ、天一国がスタートしたと言われましたが、食口どうしの間の兄弟姉妹の絆が強まる方向にベクトルが向いているかというと決してそうではありません。
 むかし、歌ったことのある“早春賦”が思い出されます。

「早春賦」 作詞 吉丸一昌 作曲 中田章(大正2年発表)

 春は名のみの風の寒さや
 谷の鶯(うぐいす) 歌は思えど
 時にあらずと 声も立てず
 時にあらずと 声も立てず

 氷 解(と)け去り 葦(あし)は角(つの)ぐむ
 さては時ぞと 思うあやにく (思うあやにく=期待に反して)
 今日もきのうも 雪の空
 今日もきのうも 雪の空

 春と聞かねば知らでありしを
 聞けば急かるる 胸の思(おもい)を
 いかにせよとの この頃か
 いかにせよとの この頃か

 教会にいても、まだ風は寒いです。そして、言いたいこと(批判だけではありません)があっても、「時にあらず」とおし黙っている状態です。
「いかにせよとのこの頃か」
 本当の意味で摂理歴史に春が到来することを願います。
 
 さて、この「御言 missing link Ⅱ」も、はや1年近くが過ぎ、全部で112のテーマとなりました。その主な内容をまとめると、次のようになります。

① 文先生のみ言葉には比喩・例え・暗号等が含まれている。人間の責任分担に関する内容を直接教えることができないことがその主な理由である。
② 文先生の定義によれば、「み旨」と「摂理」は異なるものであるが、私達はそれを混同してきたため、摂理には参加してきたが、御旨については、取り残してきた課題が多い。
③ 堕落はアダムとエバだけでなく、カイン・アベル・セツおよび彼らの相対を含めた8人家族で堕落したので、8人家族の形態を復帰するための内外の内容が「信仰基台」、「実体基台」であり、「メシアのための基台」となる。ただし、「内外の内容」ということなので、数だけそろえればよいというものではない。
④ 三位基台や信仰の3子女も上の③の形態を整えることにつながるのではないか? また、それは、「ホームチャーチ」、「氏族メシヤ」の原型と言えるのではないか? さらには、「第4次アダム圏」、「皇族圏」とも関係しているのではないか?
⑤ 私達の立場は天使・天使長だった。アダムとエバを保護し完成させる(完成したアダムつまり再臨主に侍るということとは別)ことができて、初めて天使長が完成するという原理になっている。そうであれば、それをしてきていない私達の立場は今も天使長のままなのではないか? 天使長としては、「蕩減と関係のない解放の王子・王女」を保護し、完成させることが重要であり、それをしていない私達に、果たして完成の道が開かれていると言えるのだろうか?
⑥ 私達が受けた祝福は、条件的祝福にならざるをえず、仮に「許し」は完了していたとしても、上の⑤の理由により、私達祝福家庭による創造理想完成の道はまだ開かれていないのではないか? 
⑦ 『原罪』はキリスト教が作り上げた言葉である。また、統一原理が言っているところの「不倫なる血縁関係」、「淫行」も行為であって、「悪の血統」を決定づける原因とは言い難い。「サタンの血統」という言葉があるが、そのサタンももともとは神の被造物だった。私達は、この「原罪」という概念の本質を理解する必要があるのでは? そして、その観点から、「堕落の状態」、「救い」、「成長・完成」そして「祝福」等を理解する必要があるのでは?
⑧ 三代で完成ということが、最初から創造原理に織り込まれていたことであり、メシアによる救済の事業も、三代圏を経て完成に至るのではないか?
⑨ 文先生は第2イスラエルの失敗により、メシヤとしての使命を果たすことができず、天使長としての位置から再出発された。その路程は、ユダヤ教・キリスト教の4000年の歴史を40年で蕩減しようとするものであり、文先生のご生涯はそのために費やされた。さらに、文先生はご家庭をも、そのために犠牲にしてこられた。
⑩ ⑨の天使長の位置とは、「洗礼ヨハネの位置」からということであり、ことによると、そこからさらに下りて、「ザカリヤの位置」からという可能性もあるのではないか?
⑪ 「妾」、「直系と庶子」という御言は⑩に関係しているのでは?
⑫ ザカリヤから見れば、洗礼ヨハネは直系、イエス様は庶子であるが、神様からみると、この直系と庶子はまったく逆になる。この見方は、あくまでも聖書の話に留まるのか? 文先生は「直系が庶子になり、庶子が直系になる」と言っておられるが。
⑬ 文先生は、「やがて、先生の後継者が現われ、その方を中心としてすべてが完成圏へと上っていくようになる。また、それにより、すべてを成したことになる。」と言っておられる。

 文先生はご生涯を通じて常に御言を語り続けてこられました。ご聖和される直前まで。特に三つの御言を読むように全教会員に指示されたことがあります。それは「祭物の完成」、「統一食口の使命」、「今後私たちが成すべきこと」という、いずれも1970年代に語られた御言です。
 その中で、特に1971年1月16日に語られた「統一食口の使命」の中に、次のような一節があることについて、第87、96の記事で取り上げました。

「例を挙げると、ここに12歳になった幼い少年がいるとしましょう。それが正にイエス様です。イエス様だと考えなさいというのです。イエス様の復活体なのです。イエス様が再現したのです。彼の過去がどうであるにせよ、神様の心情に対してイエス様として再現させたのです。」

 文先生は、さらに続けて、そのイエス様の恨を解くために、イエス様の親族圏を代身できる立場として統一教団をつくったとも言っておられます。
 私達は、イエス様の十字架は、洗礼ヨハネや12弟子の失敗によるものと理解してきました。ところが、文先生は、最大の原因はヨセフ親族の失敗であると言っておられます。私達は、ザカリヤとその家庭に着目することはあっても、ヨセフやその氏族について考えることは、ほとんどなかったのではないでしょうか。
 このザカリヤ家庭とヨセフ家庭を中心としてイエス様を迎える基台がつくられたのであり、そこに、洗礼ヨハネとイエス様が誕生しました。そして、この二人を一つにするために、重要な立場にいたのがマリアとエリサベツだったようです。また、この二人は協力してイエス様の新婦を準備し、子羊の婚宴を行うという点でも重要な立場に立っていたと考えられます。
 ザカリヤ家庭とヨセフ家庭という二つの家庭・氏族の基台の上で、洗礼ヨハネとイエス様が一つとなり、子羊の婚宴が行われ、イエス様の子女、孫という三代を経て、まず家庭的な創造理想が完成し、堕落人間の救済がなされていく、ということだったのではないかと考えることができます。
 このような摂理は、再臨時代を迎えた20世紀初めのキリスト教の中にも展開されるはずだったでしょうし、そのための準備がなされていたはずです。それは、その使命を引き継いだ統一教会においても同様のはずです。
 そこで、キリスト教基盤を失った文先生は、実は、洗礼ヨハネの位置からさらにザカリヤの位置にまで下りられ、統一教会内にザカリヤ家庭と、さらにヨセフ家庭をつくられ、教会全体にザカリヤ氏族圏とヨセフ氏族圏を形成されたのではないかと考えることが可能となります。
 それが正しければ、その中にはヨセフ的な人物がいたはずであり、マリヤ的な人物もいたはずです。そして、イエス様の立場の人もいたはずだとなります。そうであればこそ、
「例を挙げると、ここに12歳になった幼い少年がいるとしましょう。それが正にイエス様です。」
 と言われたのではないかと考えられます。
 もし、本当に上の御言にあるような「12歳の少年」がいたとしたら、私達は第87、96の記事で確認したように、ヨセフ家庭の使命をもっていたわけですが、実際には
「イエス様をおいたまま帰ってしまい、1日たってから、気づいて引き返してきたヨセフとマリア」(ルカによる福音書 3/41~52)
 と同じ立場なのかもしれません。そして、この少年は、すでに、どこかの宮(教会)で、教師である先輩食口達に教えておられたなんてことがあったかもしれません。
「12歳」という年齢に原理的な意味があるのだろうと考えられますが、上のヨセフとマリアの轍を踏まないようにという意味で、文先生が「12歳」という年齢を指摘したと考えることもできそうです。
 これは、あくまでも憶測です。ですが、もし、この憶測が正しいとしたら、これは大変なことです。蕩減と関係のない「解放の王子と王女」による神様の創造理想の家庭完成が、私達の知らないところで、知らない間に、成されようとしているということです。
「文先生に続く人」などいるはずがないと批判されることがあります。ですが、創造原理では、アダムが完成したら、そのアダムは彼一代限りではなかったはずです。その子女、孫、‥‥‥と未来永劫、続くはずであり、広がっていくはずでした。
 にもかかわらず、文先生に限っては、「文先生に続くアダムなどいない」となるのでしょうか? 
 このことと、記事の中で申し上げた「三代圏」という視点を合わせると、私は、「いるはずだ」と考えています。
 ただ、申し訳ないのですが、真のご子女様を含めて、今はまだ、「この方」だと確定できないでいます。
 上で述べたような憶測を、強要したいわけでも、熱心に説得したいわけでもありません。ただ、私と同様、「もし本当なら大変なことかもしれない」と思い、そのことを考えてくださる方が一人でもいてくださるなら、それは迷路に入った私自身の救いでもあります。

 また、記事の中には、関連する御言が見当たらず、根拠に乏しい私見になってしまったものもありますし、記事にできなかったものもあります。例えば、

① 堕落という事実はあっても、『原罪』はキリスト教が作り上げたものであって、実体的なものはないのでは?
② 文先生は、そのキリスト教が作り上げた実体のない『原罪』に、祝福をもって、清算という決着をつけたのでは?
③ 堕落によって、私達は利他に生きる人格レベルに上がることができなくなり、自己中心のままにとどまり、その性質が堕落性として現われ、さらには、子々孫々それが受け継がれてきた。その状態をさして原罪をもっている言われてきたのではないか?
④ 堕落によって失ったものは、エデンの園の中央にあった生命の木、善悪知るの木としての完成モデルであって、その結果、私達は完成の理想像を知らないまま、目標をしらないまま、見本をしらないまま、漠然とした理想を目指して努力してきたが、実際は道に迷ったままなのでは?
⑤ 上の③、④が堕落の状態なのでは?
⑥ 文先生が日韓関係について語られるとき、なぜ、必要以上に、生粋の韓国人のような反日的内容になるのか?
⑦ 妾の必然性は御言から理解できたとしても、噂として取り上げられる内容は多すぎるのでは?
⑧ 「縦的神の愛と横的父母の愛、縦的な真の愛と横的な真の愛が一つになって、世界の血統的内容を抱擁した上に立つ愛を、真の愛という」という文先生の真の愛の定義は、一体どういうことを言っておられるのか? これが根本であるとすれば、この観点から、原理や御言を理解し直す必要があるのでは?
⑨ 晩年、文先生が「本体論」や「天地人真の父母定着実体御言宣布」を強調された理由は?
⑩ 夜の神、昼の神の真意は?

 これらの疑問のいくつかは、もしかすると、御言に解決のヒントはあっても、根拠となるようなものはないかもしれません。文先生もすべてを語ることができなかったからです。
 私達が自分で悟っていくべき内容なのかも知れませんし、あるいは、文先生の次の方が解く内容なのかも知れません。

 今回の「まとめ」は、これまでの112回の記事をふまえての内容であり、そのため根拠となる御言は割愛しています。結論的な表現に疑問を感じられる方がおられるかもしれませんが、今回の記事内容に対する異論・反論・質問につきましてはは、回答はご容赦下さいますようお願いいたします。とても、コメント欄では説明しきれないと思いますし、短く説明したりすると、さらなる疑問を生むこととなり、対応しきれなくなるかと思います。112回の記事があればこその今回のまとめです。今までの記事をご参照くださいますようお願いします。

 私のブログは今回でいったんお休みさせて頂きます。

「御言 missing link Ⅱ」として約1年、ブログを始めてから約2年となりました。スタートしたばかりのころは、事前の記事のもととなるテーマが12個位しかなく、それをすべて記事にすれば2~3か月で終了してしまうかなと思っていたのですが、よく、ここまで続いたと我ながら感心しています。改めて、お読み下さった方、コメント・メッセージ、「いいね」等で励ましやご意見を下さった方、感謝申し上げます。

 御言をテーマにしたブログがあまり流行らない現状の中で、しかも、組織票のようなものをもたない当ブログが、皆様の目にとまるところで維持してこれたのも、読んで下さる方がいて下さったおかげです。しかも、分派の主張とかわらないような特殊な考えが含まれているようなときにも、その枝葉末節にとらわれず、大筋で共感してくださった方がいて下さったこと、あるいは、貴重なご意見、時に御言に基づく反論あるいは裏付けとなる御言の提示をして下さった方がおられたことは、大変ありがたいことでした。
 そのような方々がおられる限り、御言の火は決して消えることはないと確信できます。そして、いつの日か世界中にブレイクする日がくることでしょう。
 御言に関心をもち、研究する人が増え、文先生の世界が伝えられることとなることを願っています。今回の私のブログがその試金石の一つにでもなれれば幸いです。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 統一教会へ
にほんブログ村