102.「聖酒式は、イエス様を中心としていえば聖餐式である」 | 御言 missing link

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 私の認識では聖書の中に「原罪」と言う言葉はありません。「まむしの子らよ」というのはありますが。念のためネットで検索して調べてみたのですが、「聖書には原罪という言葉は存在しない」というのは事実のようです。
 またWikipediaには
「正教会では、原罪についての理解が西方教会と異なるのにとどまらず、そもそも原罪という語彙自体が避けられる場合もある。正教会では原罪につき厳密な定義をためらい、定理とすること(教義化)を避けて今日に至っている。」
 とあります。
 私たちは原罪を絶対視していますし、当然それはキリスト教でも同様だと考えています。ですが、その言葉を使っているはずのキリスト教のすべてが、必ずしもそうではないということは、念頭のどこかにおいておく必要があると思います。
 聖書以外に、イエス様が「原罪」という言葉を使われたという文献はあるのでしょうか?
 では、文先生はどうでしょう。私が指摘するまでもなく、文先生が、何度も「原罪」という言葉を用いて御言を語っておられたことは、よくご存知のことと思います。
 御言です。
 
「約婚式は、アダム・エバが約婚の時に堕落した、それを復帰しなければならない。堕落して汚れた血統を受け継いだ、その血統を転換しなければならない。これをしないと原罪が脱げないし原罪を乗り越えないと真の子女として祝福される段階に上がることができない。原理がそうなっているんだね。堕落した原罪を脱ぐ血統の転換、血肉の交換がこの聖酒式である。
 この聖酒式は、イエス様を中心として言えば、聖餐式である。血と肉の代わりにパンとぶどう酒を飲む。堕落したんだからイエス様の体を受けることで新しい肉体を受肉しなければならない。それと同じように、この聖酒式は堕落した行程と反対の方向にもって行かなければならない。
‥‥‥‥(途中略)‥‥‥‥
 この聖酒はいかに作られるかというと、陸海空を象徴し、全体を象徴しているものから作られた酒である。三種類の酒が入っている。これを飲むということは、霊的に生まれ、肉的に生まれる、ということである。
 このがなければ原罪を脱ぎ、血統を転換することはできない。血統が転換されなかったならば、完成基準を通過して神の愛と一体となることはできない。その全てを蕩減する式であることを知らなければならない。
 (祝福2号 37p~40p 聖酒式のみことば 1970年 10月10日 水沢里)

 聖酒式の意義について語られています。特に最初の段落の最後のところには
「堕落した原罪を脱ぐ血統の転換、血肉の交換がこの聖酒式である」
とあります。このような御言を根拠に、私達は、聖酒によって原罪が清算されると教えられてきましたし、また、そう信じてきました。
 ところが、私には気になってしまう箇所があります。
 まず、第2段落の
この聖酒式は、イエス様を中心として言えば、聖餐式である。血と肉の代わりにパンとぶどう酒を飲む。堕落したんだからイエス様の体を受けることで新しい肉体を受肉しなければならない。それと同じように、この聖酒式は堕落した行程と反対の方向にもって行かなければならない。」
の部分です。
 聖餐式によってキリスト教徒が「新しい肉体を受肉」しているかといえば、それはあくまでも象徴であって、肉的な救いは残されたままであるというのが私達の認識ではないでしょうか。ですが、
「それと同じように、この聖酒式は‥‥‥」
 と言っておられます。
「聖餐式」は、キリスト教では非情に重要な儀式です。ですが、原理を知った私達から見れば、単なる儀式です。それを、そのまま「聖酒式」に当てはめてはいけないとは思うのですが‥‥‥。
 また、第3段落初めの
「陸海空を象徴し、全体を象徴して」
 の「象徴」という言葉です。
「象徴」するものによって原罪が清算されるということについて、教会の旧来的説明ではなく、もう少し理論的かつ科学的な説明が欲しいと思っています。そうでなければ、結局は、最後は「信じるか、信じないか」となってしまい、理屈なしに信じる信仰というのは成立しがいものですから、それでは万民救済は難しいのではないでしょうか。
 そして、最後の部分には
「その全てを蕩減する式であることを知らなければならない」
 とありますが、この「蕩減」はどちらかというと実体的蕩減というよりも「象徴」的蕩減ととることができると思います。
 原理には、蕩減の方法として「減償法」という言葉があります。また、「神様と文先生とサタンの三者協議により、聖酒を飲んだものには原罪がないとするという、とりきめが成された」と説明される場合もあります。祝福家庭として、上のような疑問は、すべてこのような説明の中に収めて、真の御父母様にただ感謝すべきでしょう。ですが、収めきれないものを感じるのは、私だけでしょうか?
「原罪」はすべての問題の根源です。それが祝福によって清算されることにより、そこから表出するすべての問題が解決されてきていると言えるのであればよいのですが、むしろ、逆の事実がたくさん現われる状況となっていないでしょうか? 二世についても、原罪はないと言われているわけですが、では一体、成人して、原理でいうところの完成に至ったという二世がどのくらいいるのでしょうか? 多くの二世の中間的な状態について、きちんとした原理的な説明は可能なのでしょうか?
 これらの原因を、あくまでも、そしてどこまでも、私達の努力が足りないからだというところに落とし続けてきたわけですが、本当は、努力が足りないからではなく、理解が足りないから努力するポイントを外してきたということはないでしょうか?
 真の理解に至るには、まずは自分の立ち位置から見直す必要があると思います。それは、次のように分類されると思います。

① 原罪は絶対であり、祝福も絶対である。足りないのは我々の努力と資質である。
② 原罪は絶対ではないが、祝福は絶対である。あとは我々の努力だけである。(祝福は原罪の清算を前提としているわけですから、この考えはすでに無理があります。)
③ 原罪は絶対だが、祝福は絶対ではない。祝福によって原罪は清算されていない。
④ 原罪も祝福も絶対ではない。
⑤ 原罪と祝福が絶対であるかどうかは別にして、そもそも「祝福をもって原罪を清算する」ということには摂理的な意味があった。
⑥ その他

 これらの立場・主張をまとめるには、原罪や祝福に対し、いったん客観的な視点に立ち、もう一度、その本質を、御言をもとに見直してみることが必要だと考えています。
 ただし、この作業、私にはかなり荷が重く、時間がかかりそうです。他の方の研究にも期待させて頂きたいと思います。もっとも、ほとんどの食口は①以外には受付けないでしょうが‥‥‥。
 信じている方を不信へと引っ張るつもりは毛頭ありません。いつも言っていることですが、そうでない人間に対し、「何をばかなことを言っているんだ、信じないのがおかしいだろう」と言えば、それで「はい、そうでした」となるのであれば、とっくに統一世界ができていると思います。
 そこを丁寧に掘り下げていくことが必要ではないかと申し上げています。

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