50.「統一協会の信徒たちの宗教圏の垣根の清算」 | 御言 missing link

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50.「統一協会の信徒たちの宗教圏の垣根の清算」

 次は先回も提示した御言の一部です。

「今日、統一協会の信徒たちが、宗教圏の垣根を抜け出られず、それに覆われながら生きてきた習慣的なすべてのことを、どのように清算するのかという、重要な起点に今、来ています。」(2008・1・2  第25回「愛勝日」&神様王権即位式第7周年記念及びイエス様生誕記念)

 私達が復帰されていく過程において、最後の試練といえるものの一つは、
「自分で復帰した真理かどうか」
 に対する試練ということはないでしょうか? 
 原理を究明された文先生が、神様から2度否定され、それでも、これしかないと言われ、最後には、神様もその通りだと言われたという話のように。
 そして、そのような部分に関しては、私達の責任分担を残すために、文先生は、はっきりとは語っておられないと言えます。
 例えば(と言いながらも、あまり具体的には言いにくいのですが)、私達がその救い・成長・完成という観点での“人間の責任分担”に関することで、進もうとする方向が正しいかどうか迷って、文先生に伺ったとします。
「この方向が正しいのでしょうか?」
 文先生は、それが人間の責任分担に抵触する内容である場合、正しくても正しくなくても、決して肯定はされないはずです。また、
「否定はされなかったということはYesという返事だ」
ととられてしまうような場合には、はっきりと
「NO!」
と言われるでしょう。たとえ、正しくてもです。
 さらに重ねて聞いたりすると、
「そっちはサタンだ!」
 とさえ言われるかもしれません。
 ですが、私達が自分で確認し、確信をもって
「先生が何と言われようと、やはりこれしかありません」
 と言ったとしたら、そのとき文先生は、その私達の心の中の揺るがない確信を見て、初めて
「その通りだ」(間違っている場合は、やはり“NO!”ですが。)
 と言うことができるのではないでしょうか。
 特に、誰の言うことが正しいのか、誰に従わなければならないのか、という問題は、アダム・エバの堕落の経路と重なってくる部分があると思いますから、文先生は、神様と同じように、「この人の言うことが正しいとか、その人の言うことに従いなさい」とは言えない場合があるのではないでしょうか。 

 また、文先生が、神様とご自身のことを「詐欺師」と言われたことがあるという話を聞いたことがあります。食口のなかで、これを100パーセントその通りにとる人はいないと思います。
 幹部のある方が「ある人物」の是非について文先生に伺ったことがあると聞いているのですが、その際、文先生はその人のことを「詐欺師」と言われたそうです。それが誰のことだったのかは明言は控えます。
 本当に詐欺師であるか、その全く逆となるはずです。
 神様も文先生も「詐欺師」、もう一人(?)、文先生をして「詐欺師」
と言わせた人がいる‥‥‥。本当に詐欺師なのか、それとも、もしかしたら、文先生と同じ‥‥‥。

 次の、御言をお読み下さい。

「二世、三世たちは私の言うことをよく聞くのです。仏教であれ、儒教であれ、キリスト教であれ、回教であれ、このような二世、三世達が、修士、博士になって、未来にその宗教の長となる日が遠からず訪れるのです。彼等は心から宗教の進むべき統一的基準は文先生であることが分かるようになるでしょう。その時は、彼らが信じていた教理はとんでもないということが分かるでしょう。そうなれば、わざわざ統一教会にまで来なくてもよいのです。神様の真なる種を受けて、それを蒔いて、そこから芽が生え、成長して実を結ぶことのできる風土をつくればよいのです。 (ファミリー90年5月 P31 第二十三回神の日)

 統一教会以外の2世・3世のことを言っておられます。
「私の言うことをよく聞くのです」
 というのは、「言われた通りにする」というよりも、「よく理解する」ということだと思います。
 後半に、
「そうなれば、わざわざ統一教会にまで来なくてもよいのです。神様の真なる種を受けて、それを蒔いて、そこから芽が生え、成長して実を結ぶことのできる風土をつくればよいのです。」
 とありますから、ただ言われた通りのことをするというのとは違うように思われます。
 そして、文先生は「統一教会」という形態にこだわっておられなかったということも言えるでしょう。

「今まではピラミッド式の組織でしたが、今からは違います。反対に引っくり返すのです。ですから、本部がありません。地方にも県がありません。郡がありません。先生を中心として本部は全家庭なのです。
 堕落する以前もそうです。父母だけしかいないのです。祝福家庭は、全部ご父母様を中心として、神様を中心として特命を受けて、その命令の一元化実体圏を整えて、天の前に奉献しなければならない責任を、地上に生きる血族たちは全うしなければなりません。これが天国に行くことのできる準備なのです。
 (ファミリー1991年3月 P68)

「天国に行くことのできる準備」とは組織に従属することとは異なるようです。

「堕落故に生まれたのが宗教。堕落した人間を教育する学校、訓練する訓練所が宗教だというのです。学校や訓練所は卒業しなければなりません。しかし、どの宗教も、入教を勧めるけれど卒業を勧めません。」(2007年4月16日 FAX-NEWS アジア太平洋平和サミットが開幕 4月15日 ソウル ---第19の記事でも提示)

「世界基督教統一神霊協会は、天使長宗教圏です。‥‥‥天使長の使命しかできないというのです。息子の使命が果たせないのです。分かりましたか?」
(ファミリー97年10月 P22 七・八節のみ言 第16の記事で提示)

 天使長から卒業する食口が増えれば、リーダー達にとっては、僕(しもべ)がいなくなるわけですから、都合の良いはずはありません。どうしても宗教に縛り付けておこうということになるのでしょうか。
 ひょっとすると、キリスト教が、十字架による救いを絶対視し、本来のイエス様の目的と異なる教義を打ち出し、内的には信徒をそれに縛り付け、外的には荘厳な建物を作り、聖職者の権威をどこまでも高め、‥‥‥

 同じように、文先生がおられなくなった後の家庭連合も、本質のっずれた何かを絶対視し、本来の文先生の目的とは異なる教義を前面に打ち出し、内的に食口をそれに縛りつけ、外的には荘厳な建物を作り、責任者の権威をどこまでも高め、‥‥‥
といった、歴史が再現されていくのでしょうか? もうすでに始まっているようにも見えますが。

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