44.「為に生きる愛では、真の愛にはなりません」
教会では「為に生きることが大切」とよく強調されてきました。ですが、
「為に生きる愛」=「真の愛」
とは限らないようです。
「真の愛とは一体何ですか。(『為に生きる愛です。』) 為に生きる愛では、真の愛にはなりません。為に生きる愛の道によって真の愛が探されるのです。
真の愛とは一体何ですか。(『怨讐を愛する愛です。』) 怨讐を愛する愛が真の愛ですか。怨讐でない者を愛する真の愛はないのですか。(どよめき) そういうこともあります。自分の愛する子供たちは怨讐でもないのに、愛さなければなりません。間違ったところは愛の代わりに鞭を打つ。これをどう解釈しますか。そんなことで正しい解答にはなりません。
では一体何ですか。(『縦的神の愛と横的父母の愛が一つになった所です。』) そうです。縦的神の愛と横的父母の愛。縦的な真の愛と横的な真の愛が一つになって、世界の血統的内容を抱擁した上に立つ愛を、真の愛というのです。そこが私たちの生命の元になります。」(祝福 63 P159)
最初のところで、文先生が
「真の愛とは一体何ですか」
とたずね、誰かが
「為に生きる愛です」
と答えています。
それに対し、文先生は
「為に生きる愛では、真の愛にはなりません。為に生きる愛の道によって真の愛が探されるのです。」
と言っておられます。
「為に生きる愛は真の愛そのものではない? それは真の愛を探す道? では、真の愛とは一体? そうだ、『怨讐を愛する』という言葉がある」
と思うのですが、‥‥‥‥。
先回の記事は「怨讐を愛する」でしたが、その愛の基準があれば間違いなく、「真の愛」に到達していると思えるのですが‥‥‥。
上の御言の3行目からを読むと、
「怨讐を愛する」では「真の愛とは何か」ということの「正しい解答」にはならないとあります。
その部分の御言です。
「真の愛とは一体何ですか。(『怨讐を愛する愛です。』) 怨讐を愛する愛が真の愛ですか。怨讐でない者を愛する真の愛はないのですか。(どよめき) そういうこともあります。自分の愛する子供たちは怨讐でもないのに、愛さなければなりません。間違ったところは愛の代わりに鞭を打つ。これをどう解釈しますか。そんなことで正しい解答にはなりません。」
決して、「怨讐を愛することは真の愛ではない」と言っておられるわけではありませんが、それだけでは「真の愛とは何かという問いに対する正しい答えにはならない」と言っておられます。
そして、この後に、文先生は「真の愛とは何か」という定義を語っておられます。その定義とは
「縦的神の愛と横的父母の愛。縦的な真の愛と横的な真の愛が一つになって、世界の血統的内容を抱擁した上に立つ愛を、真の愛というのです。」
とのことです(正解を言った食口がいたというのはすごいですね)。
ところで、この「真の愛」を完成したと言える個人・家庭って、果たしてあるのでしょうか?
神様が願ってこられたことの一つに、
「すべての人類・家庭とともに、この文先生の定義による『真の愛』を共有・共感すること」
があると思います。
人間に与えるための真の愛ですが、その共有・共感を願っておられた神様でもあったと思います。
それができずに、孤独なまま、取り残されてきた神様の真の愛でした。
「神様を完成させる主体は神様ではありません。人間であるというのです。どうしてでしょうか。愛の対象が、自分よりもずっと高く高くなることを望んでおられる方であるがゆえに、神様の愛の目的を完成させることのできる対象なのです。その対象を通して、より高い存在にぴったりくっついてこそ、神様も大きな喜びを感じることができます。」 (祝福81号 61p~63p 真の父母の日と天地人愛完成の日 1994年 4月11日 中央修練院)
ここでは、文先生は、
「神様は、愛の対象が自分よりもずっと高く高くなることを望んでおられる方であり、その対象を通して、より高い存在にぴったりくっついてこそ、神様も大きな喜びを感じることができます」
と言っておられます。
その喜びを神様に捧げるために、文先生はどれほどの心血を注いでこられたことでしょうか。
そして、ご自身がそれを完成された際、
「あーよかった、よかった」
と締めくくることができた文先生だったのでしょうか。
「先生は勝利したから、あとはみなさん、よろしく」
と、いつになったら勝利できるかわからない私達に託して、安心しておられた文先生だったのでしょうか。
「神様が喜んでくださるなら、それを次の世代にも残し、継続・発展させたい」
と願う文先生だったのではないでしょうか。
「神様、私が霊界に行った後は、地上にはしばらく、あなたと真の愛を共有し、その喜びをあなたにお返しできる者はいませんが、私の子女や祝福家庭の中から何代か後には現われるでしょうから、それまで待っていてください。それがいつになるかは彼ら次第ですが、今まで長い間待たれたんですから、もう少しいいですよね。」
などと神様に祈ることのできた文先生ではなかったと思います。
だから私は思いたいのです。
文先生の勝利を相続し、上の定義どおりに真の愛を顕現させる人が現われるはずだと。いや、もしかしたら、世代を明けずに、もうすでにいるかも知れません。
そういう可能性を、文先生は神様のため必ず残されたはずです。できればご自身以上に、神様を喜ばせることのできる「より高い存在」をこの地上に残されたかったはずだと思うのです。
私達は、文先生よりも「高い存在」なんて、現われるはずがないと思っています。ですが、文先生が神様と一体であれば、神様が願うことは、文先生も同じように願うことなのではないでしょうか。
ですから、確実に何かを残されたと思います。そして、初めてそのような家庭として現われるところがあるはずです。そこが中心点だと思います。
その中心に近いところにいる人も、遠いところにいる人も、文先生が、「氏族メシア」、「第4次アダム圏」という話をされる場合には、つねに「みなさんは」とよびかけられたのでした。私達に、たとえ1パーセントでもそうなれる可能性があるのなら、文先生は決して排除したりしませんでした。
ですが、完成の中心は1つで、そこから広がっていくはずです。その後から完成を目指すには、その中心につながっていく必要がはずです。
「為に生きる愛の道によって真の愛を探す」努力をしながら。
「しかし、中心においては、先生の家庭においては神に対する伝統を受け継ぐ後孫、中心家庭――直系を受け継ぐ一中心があると思います。その中心一人だけいれば、その一人を中心として一つになることによって、すべてが上へと上っていくことができます。そうして先生はすべてのことを成したことになります。その時は中心を中心として先生の後孫たちも一つになります。」
(御旨と世界 P943 「私を中心とした父母と子女と万物世界」 )
第5の記事その他で、何度も提示してきた御言です。
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