36.「主人の声を聞く羊の流れ」 | 御言 missing link

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36.「主人の声を聞く羊の流れ」

「羊とやぎに分けられる」という御言がありますが、私達の常識からいうと、教会にしっかりとつながっている人が羊で、その周辺をうろうろして、批判ばかり言っている人たちはやぎです。本当でしょうか?

「それでは、いつを終末と考えるべきかというと、今であるということができます。なぜなら、聖書がいうように終末になれば羊とやぎに分けられるからです。羊は主人のあるものを、やぎは主人のないものをいうのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ p527)

 ところが、次の御言はどうでしょう? 少々長いですが。

真の父母が、どこにいますか? 真の父母は、おじいさんの真の父母を願いますか、青春の真の父母を願いますか? (「青春の真の父母です。」) お母様も、60歳になりますが、尋ねてみれば、「どうして尋ねるのですか? 青春の真の父母でしょう?」と言うのです。
 それでは、老人の真の父母は、蹴飛ばしてしまいますか、持って行きますか? (「お連れして行きます。」) 霊界に行っても、夫の年齢がおじいさんのままでは、大変なことになるでしょう? ありがたいことに、霊界に行けば、自分が願う年齢で、花咲く青春の先祖の王になることのできる道があるのです。ですから、このようなおじいさんの真の父母が、青春の王の真の父母になることができる可能性がありますか、ありませんか? (「あります。」) 
 羊とやぎが闘えば、やぎが勝ちますか、羊が勝ちますか? 羊が勝ちますか、やぎが勝ちますか? (「やぎが勝ちます。」) やぎですか? (「羊です。」) なぜ、羊が勝つのですか? 羊は、力で見れば、やぎに負けるかもしれませんが、羊にはコーチする主人がいます。分かりますか? (「はい。」) やぎにはコーチする主人がいません。ですから、どこに行くかわかりません。あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、一日の中でも損害が多いのです。十里の道を行くのにも、何千里歩き回っても、自分の目的地に行くことができません。主人がいれば、『おいおい、こっちに行きなさい。狭い道は、このように正面から行くことができないので、このように横に立って、鼻が切れないように注意して抜けていきなさい。』とコーチしてくれるので、勝つことができるのです。それは主人がいるからです。わかりますか? 
 天国に行くのですが、羊になりまますか、やぎになりますか? (「羊です。」) では、天国に行く主人の命令を受けていますか? (「はい。」) 何ですか? (「はい。」)
何ですか? (「はい!」) 言葉では、うまく言いますね。
 それでは、今、統一教会に来るのに、やぎの群れが多いですか、羊の群れが多いですか? やぎと言えば、銃を撃って捕まえるのではありません。羊の反対のやぎです。そのことは知っているでしょう? 山で暮らす羊を「山羊」というのです。そのようなやぎの群れが多いですか、羊の群れが多いですか? (「羊の群れが多いです。」) 
 日本の女性の中では、羊の女性が多いですか、やぎの女性が多いですか? (「羊の女性が多いです。」) 好きなように言っていますね。『私は醜いが、美人を“うらやましい”とは思わない』と、皆、言うのです。
 羊とやぎの違いを知らなければなりません。羊には主人がいるのです。日本で暮らす統一教会の教会員も、間違いなく、やぎはやぎですが、主人の声を聞くことのできる羊の流れに入ってきました。
(ファミリー2003年1月 P28 第43回「真の子女の日」 記念礼拝のみ言)

 少々長いので、もう一度、赤色のところだけを並べてみます。
 
「真の父母が、どこにいますか?」
「おじいさんの真の父母を願いますか、青春の真の父母を願いますか?」  
「青春の真の父母でしょう?」
「羊にはコーチする主人がいます。」
「やぎにはコーチする主人がいません。」
「コーチしてくれるので、勝つことができるのです。それは主人がいるからです。」
「天国に行くのですが、羊になりまますか、やぎになりますか?」
「では、天国に行く主人の命令を受けていますか?」
「山で暮らす羊を『山羊』というのです。」
「日本の女性の中では、羊の女性が多いですか、やぎの女性が多いですか?」 
「『私は醜いが、美人を“うらやましい”とは思わない』と、皆、言うのです。」
「羊には主人がいるのです。」
「日本で暮らす統一教会の教会員も、間違いなく、やぎはやぎですが、主人の声を聞くことのできる羊の流れに入ってきました。」


 ここからは、御言の客観的な解釈を越えるかもしれません。

「真の父母が、どこにいますか?」
「おじいさんの真の父母を願いますか、青春の真の父母を願いますか? 
「青春の真の父母でしょう?」


 この部分を読んで、私達は、
『青春の真の父母』って誰のこと? 文先生の若かりしころ? それとも、ご子女様のこと?」
 と考えるかと思います。
 私の場合は、第11の記事の
「中心家庭――直系を受け継ぐ一中心」( 御旨と世界 P943)
 のことかな? と思いました。
 そこで、さらに、その先の御言の青色の部分を読むと、
「霊界に行けば、自分が願う年齢で、花咲く青春の先祖の王になることのできる道があるのです。」
 とありますから、「なんだ、霊界のことだったのか。」
と思ったりします。
 ですが、この御言は、中ほどに「天国に行くのですが」とあることから、御旨について語っておられます。文先生としては、明確に、詳しく教えることができない部分なのだと思います。
 そうなると、青色の部分は、その前の内容が、直接的に伝わるのを避け、それを婉曲にするために、注意をそらしたかのようにもとれます。
 つまり「青春の真の父母に関心を持ちなさい」と言っておられるように読むことができるということです。
 次に、
「羊にはコーチする主人がいます。」
「コーチしてくれるので、勝つことができるのです。」

 と言っておられます。
 私達には、まだコーチが必要だと思います。天国に行くためのコーチが。
 そして、そのコーチの指導を受けて、天国に行くには、羊にならなければいけないようです。
「天国に行くのですが、羊になりますか、やぎになりますか?」
 私達はやぎでしょうか? 羊でしょうか?
 羊だと自覚している人も多いと思います。ですが、文先生がここで言っておられる羊とは
「天国に行く主人の命令を受けていますか?」
 という質問に、「はい」と答えられる人のようです。
「はい、教会を通して、牧会者を通して、真のご父母様の命令を受けています」と答える人もおられるでしょう。ところが、そういう答えを察知してか、文先生は、
「山で暮らす羊を『山羊』というのです。」
と言っておられます。
 「山」って何でしょう? 「山で暮らす」と言えば、宗教では、修行生活を指すことがあります。最後のところに「日本で暮らす統一教会の教会員も」とあることに着目すると、ここでは、「教会」が山に例えられているのかもしれません。つまり「山で暮らす羊」=「日本で暮らす統一教会の教会員」です。「暮らす」が重なることによって、対語になっているように思えます。私達は、教会に熱心に通っている人も含めて、みな、やぎのようです。
 また、文先生のこの定義に従えば、「コーチする主人など必要ない。あとは、自分で完成して天国に行く」と考える人も、「やぎ」となるのではないでしょうか。

「日本の女性の中では、羊の女性が多いですか、やぎの女性が多いですか?」 
(「羊の女性が多いです。」)
「好きなように言っていますね。『私は醜いが、美人を“うらやましい”とは思わない』と、皆、言うのです。」

「私はやぎだけれど、羊をうらやましいとは思わない」という意味にとれます。

「日本で暮らす統一教会の教会員も、間違いなく、やぎはやぎですが、主人の声を聞くことのできる羊の流れに入ってきました。」
 はっきり「やぎ」だといわれてしまいました。従順に教会の指示に従い、必死に責任を果たして来られた方には少々ショックな内容でしょう。
 ですが、最後に
「やぎはやぎですが、主人の声を聞くことのできる羊の流れに入ってきました。」
 と言っておられます。
「主人の声を聞く」ということの真意を考えないといけないと思います。ここで、文先生が言っておられるのは、「天国に行くためのコーチ」についてです。摂理についてというよりも、御旨についてのコーチです。詳しく教えることはできないとしても、どうすれば、私達が完成できるのか、天国にいけるのか、という指導です。
 ですから、これは「いつまでに何人を伝道をせよ」とか「いくら献金をせよ」とかいう摂理上の明確な指示ではありません。私達が悟って行動する責任範囲を残した指導となります。
 そのような指導に耳を傾けているでしょうか? 関心をもっているでしょうか? そしてその通りに実践しているでしょうか?
 それが、
「天国に行く主人の命令を受けていますか?」
 ということなのではないでしょうか。
 確信をもって「はい」と言える人はいるでしょうか?
 ただ、どこかにそのような流れができ始めているようです。

「日本で暮らす統一教会の教会員も、間違いなく、やぎはやぎですが、主人の声を聞くことのできる羊の流れに入ってきました。」
 それは、もしかすると、その「主人の声を聞くことのできる羊の流れ」とは、「自分は羊だと思っている人たち」には「山羊にしか見えない人々」の流れなのかもしれません。

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