2009/03/10(火)
LEONです。
LEONです。
京極夏彦の京極堂シリーズの2回目を読んでいます。
しかも、並行して2冊を読んでいます。
しかも、並行して2冊を読んでいます。
なぜかというと、順番通りだと絡新婦の理(じょろうぐものことわり)ですが、
下の写真上段右端のように極太なんです。
解説も入れると1389ページもあります。
通勤時の読書は無理です。だから家で読んでいます。
下の写真上段右端のように極太なんです。
解説も入れると1389ページもあります。
通勤時の読書は無理です。だから家で読んでいます。

通勤時は次の作品塗仏の宴を読んでいます。
今回はその分冊文庫本6冊のうちの1冊目から興味深い部分を引用します。
今回はその分冊文庫本6冊のうちの1冊目から興味深い部分を引用します。
既視感覚(デジャヴ)について
それは既視感覚(デジャヴ)と云うヤツではないのか。
見たことのない筈の景色に見覚えがある、行ったことのない場所が
懐かしく思える---それは、概ね脳のまやかしである。記憶がとっ散
らかされているだけだ。
現在と云うのは、実は一番新しい過去のことだ。
認識した時点でそれは既に、僅かばかり過去となっている筈なのだ。
だから、時間を量的に捉えるなら、無と有の接点こそが【いま】なのだ。
接点と云うものは存在こそするが質量はない。即ち厳密な意味での
【いま】は数量的には零に等しい。そして過去は休むことなく増えてい
く。未来は勿論---無である。我我は常にどくどくと増殖する過去と云う
隊列の先頭に立たされているのだ。顔を向けた先にはなにもない。
だから未来予知など出来る訳もない。既視感覚と云うのは、その僅か
な過去と、もう少し古い過去とが、何かの拍子に重なるだけのことなのだ。
所謂、錯覚--‐である。
見たことのない筈の景色に見覚えがある、行ったことのない場所が
懐かしく思える---それは、概ね脳のまやかしである。記憶がとっ散
らかされているだけだ。
現在と云うのは、実は一番新しい過去のことだ。
認識した時点でそれは既に、僅かばかり過去となっている筈なのだ。
だから、時間を量的に捉えるなら、無と有の接点こそが【いま】なのだ。
接点と云うものは存在こそするが質量はない。即ち厳密な意味での
【いま】は数量的には零に等しい。そして過去は休むことなく増えてい
く。未来は勿論---無である。我我は常にどくどくと増殖する過去と云う
隊列の先頭に立たされているのだ。顔を向けた先にはなにもない。
だから未来予知など出来る訳もない。既視感覚と云うのは、その僅か
な過去と、もう少し古い過去とが、何かの拍子に重なるだけのことなのだ。
所謂、錯覚--‐である。
もうひとつは社会と個人についてである。
社会を大海とするならば、個人はそこに漂う藻屑に過ぎない。歴史を
砂漠とするならば、人生は一粒の砂でしかない。それでも人にとっては
己の人生だけが世界の凡てである。己の眼を通じて知る世界だけが
唯一絶対の世界である。だから一粒の砂と砂漠とを、藻屑と海原とを
等価なものとして規定しないと、人は立ち行かない。己は永遠に己として
あるのだと、どうしても信じたいのだ。個の否定は個人にとっては世界の
否定に等しい。だから個人は常に主張する。私は私だ---と。
砂漠とするならば、人生は一粒の砂でしかない。それでも人にとっては
己の人生だけが世界の凡てである。己の眼を通じて知る世界だけが
唯一絶対の世界である。だから一粒の砂と砂漠とを、藻屑と海原とを
等価なものとして規定しないと、人は立ち行かない。己は永遠に己として
あるのだと、どうしても信じたいのだ。個の否定は個人にとっては世界の
否定に等しい。だから個人は常に主張する。私は私だ---と。
いつものようにあらすじなどは書きません。
でもとにかく面白いですよ。京極作品は。
でもとにかく面白いですよ。京極作品は。