真っ白な空間に、無機質な機械音が規則正しく鳴り響く。

ベッドに横たわる母の手を握り、10歳の小林は泣いていた。

「嫌だよ…お母さん…居なくならないで。」

大粒の涙を頬に流しながら、懸命に伝える。

すると、母はぎゅっと手を握り返した。
そして、聞き取るのがやっとな程小さな声で、ポツリポツリと話し始める。

「由依は強い子だから、私が居なくてもきっと生きていける。サックスがあれば…私たちの繋がりが途切れることはないから。……それにね、きっと、音楽があなたと誰かを繋げてくれると思う。…由依、音楽を…サックスを楽しんで。…そうすれば、きっと……」

握られていた手の力が抜けた。

規則正しくリズムを刻んでいた音は、やがて無慈悲に一本の音に変わる。

周りで、慌ただしく医者や看護師が動き回り始めた。

小林は何も発することなく、静かに涙を溢す。

サックス奏者だった母は死んだ。

幼い小林に、愛用していたサックスを託して。


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目覚ましが鳴った。

またこの夢か。

小林はため息をこぼし、ベッドから起き上がる。


何度この夢を見ても、起きた時には涙がこめかみを伝っている。
そして、その度に自問自答する。

私は今、サックスを…音楽を楽しめているのだろうか。


『コンクールのことなんだが、小林には、サックスパートのトップをやってもらう。今回自由曲にはサックスソロもあるから、頼んだぞ。』

顧問にそう伝えられたのは少し前のこと。

トップに指名されたことは喜ぶべきなのだろうが、正直自信が無かった。
3年の先輩を差し置いて、私でいいのだろうかと自問自答する日々。
吹奏楽の名門というプレッシャーにも押しつぶされそうだ。

でも、やるしかない。


ここで負けてしまうのは、あまりにも悔しい。


小林は心に決意を宿し、立ち上がる。

そして、いつも通り練習に向かった。

夏休み、ここが正念場だ。


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目の前に聳え立つバーを前に、理佐は深呼吸をする。


バーは2mに設定されていた。
自身のベスト記録は2m10cm。


インターハイ予選には間に合わなかったから大会には出れないが、夏の時点でようやくここまで調子を戻してきた。

でも、まだ完全復帰とまでは行けていないのが現状だ。

何度飛んでも、2mの壁が越えられない。

その壁を越えなければ平手にも勝てないし、インターハイでも勝負出来ない。山﨑にだって追いつかれてしまうだろう。


理佐は助走をつけ、踏切位置に歩幅を合わせ、勢いよく地面を蹴り上げた。

しかし、縦方向に跳躍した身体は、聳え立つバーを飛び越えることは無く、マットに転がる。
無慈悲に響く、バーが落ちる音。


「くそっ!」

マットを叩きつけ、悔しさを滲ませる。


「踏切位置は良かったんだけどな。いまいちバネが効いてない印象がある。やっぱり、身体がまだ戻ってないんだろう。」

顧問の土田が冷静に解析する。

「あー、心折れそう…。」

「理佐、少し気分転換して来い。諦めるのはまだ早いからな。」

「…はい。」

土田に言われ、理佐は練習から一時離脱した。

グラウンドを出て、校舎の周りを歩く。

色んな部活が精を出し、懸命に練習しているのを見つめ、拳を握りしめる。

そしてふいに、聞こえてくる楽器の音。

前と同じ状況に、ふっと笑みが溢れる。

きっと、小林のサックスの音だ。
音楽は素人だけど、小林のサックスは特別に伸びが良い気がして、聞き馴染みが良いから分かってしまうのだ。

理佐は音の鳴る方へと辿る。

校舎の角を曲がると、空き教室で練習する小林が見えた。

音が途切れてから窓ガラスをコンコンっと叩くと、小林がこちらに気づき窓を開けた。

「理佐?」

「やっぱり今の、こばの音だった。俺、当てられるの凄くない?」

「凄い。分かるんだ。」

小林は嬉しそうに笑った。

「凄いっしょ。耳良いのかも。」

「うん、凄い。てか、どうしたの?練習終わった?」

「休憩中。全然跳べなくてさ。心が折れそうなところ。」

冗談交じりに笑って話すと、小林は「私も」と笑う。

「今度のコンクール、大事なパート任されたのは良いんだけど、全然思うように吹けなくて。今挫けそうだった。」

「こばもか…。」

「…ん、でも絶対に負けたくはないから。挫けないようにどうにか踏ん張ってる。」

小林は笑いながらそう言ったが、瞳に宿る光は途切れることなく真っ直ぐと前を見据えていた。

そんな小林を見て、理佐はまた拳を握る。

「はぁ。やっぱこばには敵わないや。俺なんていつも自分に負けてばっかなのに。」

「理佐だって何度も何度も、色んな壁を越えてきたんでしょ?今度も絶対越えられるよ。私はそう信じてるよ。」

小林の真っ直ぐな言葉が理佐の胸に染み渡っていく。

いつだって、小林は欲しい言葉をくれる。
そして、自分を奮い立たせてくれる。

気付けば小林の存在は、自分を支えてくれるものになっていた。

「ありがと…なんか元気出た。」

「ううん。…理佐、負けんなよ。」

小林はそう言って、窓越しに拳を理佐の胸にトンっと当てた。
そして、あどけなく笑う。

瞬間、胸の奥をぎゅっと掴まれ、時が止まったような感覚に陥る。

「………。」

「……理佐?」

小林の呼びかけでハッと現実に戻る。
誤魔化すように、

「…こばも、負けんなよ。」

と拳を小林の前に掲げる。

「うん。お互い頑張ろうね。」

そう言って小林は拳を理佐の拳に重ねた。

「おう。」

理佐は決意を新たに、練習に戻る。

さっきの胸の高鳴りは何だったのだろうか。
気にする間も無く、練習は再開された。

もっと高く。

ただそれだけを目指して、理佐は無我夢中で跳び続けた。