「茜さん速すぎない?」
テレビ中継を見ながら、7区を走る予定の斎藤が呟く。
守屋は随分と楽しそうに、猛スピードで6区を走っていた。
現在欅大は12位。この様子なら、きっと順位も上げてくるだろう。
シード権に入る可能性も出てきた。
ああ、私は凄い舞台に自分は立とうとしているんだな。
齋藤は思わず身震いした。
1年間死に物狂いで練習してきたけど、この舞台はそんな生易しいものではない。
何年もの間努力した人だって、立てないこともある。
そんな舞台に、走り始めて1年にも満たない自分が立つなんて。
一体どんな景色が待ってるんだろう。
齋藤はワクワクと、プレッシャーと、怖さ、色んな感情がごちゃ混ぜになって、ハイテンション状態になっていた。
「ふーちゃん、あまり飲み込まれないようにね。」
付き添いの土生が伝える。
土生はマスクをしてるが、体調はそれなりに回復したらしい。
「すでに大分飲み込まれてる。」
齋藤が自虐すると、土生は齋藤の両肩を掴み、揉んだ。
くすぐったくて、思わず肩をすくめた。
「リラックス…。肩の力を抜いて。」
土生に言われるがまま、齋藤は深呼吸をして身を委ねる。
心地良い土生の肩揉みが、齋藤の心と体を癒す。
「私のせいで、ふーちゃんに楽させてあげられなくなっちゃったね。ごめんね。」
土生は齋藤の肩を揉みながら言う。
「またそんなことを言って」と齋藤は怒った。
「楽するなら、走らないことが1番でしょ。走るからにはどっちにしろ苦しいの。私はそれを分かった上で、走ることを選択した。」
「うん。」
「私は他の皆みたいに速く走れないけど、この道を、箱根を走ることを許された人間なんだよ。どんなに苦しくても、タスキは繋ぐよ。土生ちゃんが命がけで繋いでくれたタスキをね。」
「頼もしいね。頼んだよ。」
土生がクシャッと笑った。
土生の目には光るものがあったような気がしたけど、確認する間も無く、ふいに齋藤の背中に大きな衝撃が走る。
土生が齋藤の背中を思いっきり叩いたらしい。
急だったから、その勢いに思わずよろめく。
「効いたわ〜。」
齋藤は背中を押さえた。
「さぁ、1位の乃木大、松村が小田原中継所に間もなく辿り着きます。そして遅れること1分、4位で芦ノ湖をスタートした日向大の加藤が区間新ペースで松村を追いかけます。」
熱い実況が齋藤と土生の耳に入る。
画面には、日向大の加藤が最後のスパートをかける様子が映し出されていた。
そして画面が切り替わる。
「こちら新旭橋前、欅大の守屋が順位をさらに1つ上げ、全体の11位に浮上しました。守屋も加藤に次いでかなりいいペースです。」
土生と齋藤は、2人で目を合わせた。
「茜さんヤバいじゃん!凄すぎ!」
齋藤は喜びを露わにし、飛び跳ねた。
それはまるで、心の中で膨らんでいくプレッシャーを誤魔化すようでもあった。
その頃守屋は箱根湯本駅前、ラスト3キロに差し掛かろうとしていた。
6区のラスト3キロは平地だ。
高低差800メートルの山を下った後だから、平地なのにまるで上り坂のように感じる。
守屋は懸命に腕を振った。
下りで飛ばしすぎた代償が、ラスト3キロの平地で襲いかかる。
分かってはいたが、こんなにもキツいんだ。
思わず顔を歪める。
でも、ここで怯むわけにはいかない。
ここからが本当の勝負だ。
他の誰でもない、自分の心身との勝負。
ふいに時計を見る。
うん、思ったよりペースは落ちていない。
今日は負ける気がしないわ。行ける。
守屋は最後の力を振り絞り、さらなるスパートをかける。
ラスト1キロで、監督車の矢崎から初めて声がかかった。
6区だけは、監督車からの声かけがラスト1キロのみしか許可されていないのだ。
「守屋さん、欅大は現在11位。守屋さん自身は区間2位です。区間1位の日向大の加藤さんの通過タイムより、5秒遅れといったところです。」
その情報を聞いた守屋は、限界値に達した体を無理やり動かしてピッチを上げた。
負けず嫌いの精神が守屋の中で燃え上がる。
自分にも負けたくないけど、やっぱり人にも、誰にも負けたくない。
最後の直線でタスキを肩から外した。
タスキを手に巻き付け、腕を無我夢中で振る。
歯を食いしばり、前だけを見た。
「茜さん!ラストー!!」
齋藤の声が耳に入った。
あと少し。あと少しだ。脚を、腕を動かせ。
負けたくない…!
守屋は手に巻き付けたタスキを伸ばし、両手で広げる。
絞り出すように、全身の筋肉を動かした。
「かっこよすぎです。」
齋藤が手を後ろに伸ばす。タスキは守屋の手元からスルリと離れていった。
守屋はヨタヨタと地面に手と膝をつけると、土生がすかさず守屋を支えた。
「お疲れ様です!茜さん区間2位ですよ!!」
「2位…?そっか…。」
守屋は天を仰いだ。
悔しいのか、達成感なのか分からないが、自然と涙が溢れてくる。
「区間1位の加藤さんとは3秒差でした。」
土生がくれた情報を、ああ、そうか、と冷静に処理する。
届かなかった。
速い人って、ほんとにたくさんいるんだな。
たったの3秒で、私はこの6区最速の座を逃したんだ。
…敵わないや。
この3秒を、今後の私は縮められるのだろうか。
もしかして、永遠に縮められない3秒なんじゃないのかな。
一瞬、弱気な気持ちが守屋を支配する。
これだけ全力を出し切った。
自分自身に打ち勝ち、過去最高の走りが出来た。
それでも超えられない壁があるのだ。
ほんの数歩の差なのに、途方もなく遠い3秒だと思った。
「悔しいなぁ…。」
誰に言うでもなく呟く。
涙は止めどなく溢れてくる。
ああ、でも…
超えたい。
負けたままなんて、絶対に嫌だ。
「土生ちゃん、私もっと強くなる。」
守屋は涙を拭って、決意を口にした。
すると土生は、嬉しそうに微笑む。
「その言葉、受け取りました。聞いた話によると、高ければ高い壁の方が登った時気持ちいいらしいですよ。」
「それ、ミ○チルの歌詞でしょ。」
「バレました?」
そう言って土生は、おどけたように笑ってみせた。
「でもほんと、壁は高いねぇ。」
守屋はビニールシートの上に寝転がり、呟く。
「茜さんはその方が燃えるんじゃないですか?」
「うん。すごく燃えてる。」
「その意気です。あー。なんだか私も燃えてきました。」
土生も守屋の横に寝転んだ。
顔だけを守屋の方に向けると、守屋と目が合う。
「お互い戦う場所は変わっちゃうけど、頑張ろうね。」
吸い取られてしまいそうな力強い瞳から、守屋の決意が伝わる。
「はい。頑張りましょ。辛い時は、私が励ましに行きますからね。幸せ届けますからね。」
土生が優しく微笑むと、守屋も微笑み返す。
しばらく2人は寝転んだまま、未来への希望と共に、少しだけ今の悔しさを噛み締めたのだった。