箱根の山から吹き下ろす風を背に受け、齋藤は走る。

7区の最初の3キロ、小田原の町に入るまでは、緩やかとはいえ下り坂だ。
沿道の歓声にも背中を押され、ハイペースで走り抜けていく。


下り坂を終えた頃、齋藤は前を走る西洋大の選手を視界に捉えた。

ようやく、シード権まであとひとつの所まで来たんだ。

抜きたい。
少しでも順位をあげたい。

齋藤はタスキを握りしめる。
これまで走った6人の汗と色んな想いが染み込んだタスキの重さに、齋藤はペースを上げずにはいられなかった。

徐々に西洋大との差が縮んでいく。
行ける。行ける。


「___さん、齋藤さん!聞こえてますか!?」

後ろの監督車からの声に、齋藤はハッとした。
消えていた周りの騒めきが再び耳に入ってくる。

いつの間にか5キロを走っていたらしい。

齋藤は右手をあげて、聞いてます、と合図を送った。

「齋藤さん、お嬢様から、肩の力を抜いて深呼吸をして、順位は気にせず自分の走りを貫いて。との伝言です。」

矢崎に言われ、ふいに齋藤は思い出す。

『興奮と緊張でハイペースにならないようにね。初めにペースを上げすぎると後半がキツくなって失速してしまうから。』

レース前に菅井にそう言われていたのに、頭からごっそり抜け落ちてしまっていた。

齋藤は初めて時計を見る。

かなりのオーバーペースだった。

6区までの皆の渾身の走り。
沿道の応援。
自分が順位を下げてはいけないというプレッシャー……

色んな想いや要素が、齋藤をオーバーペースにさせた。

そして菅井は、それを全部見透かしていた。

…まさにその通りでした。


齋藤は腕をだらんと下げ、大きく息を吸い込んで深呼吸をする。

冷静になれ。
今は、このタスキを確実に繋げることが1番だ。

齋藤はペースを上げたくなるのをグッとこらえ、身の丈にあったペース配分を心がけた。

近づいていた西洋大との距離が、再び開いていく。
悔しいけど、きっと今の私の実力では、さっきのペースは自滅してしまう。

逸る気持ちを抑え、齋藤は西洋大の背中を見送った。



その頃平塚中継所では、8区を走る田村が、小池と共にウォーミングアップをしていた。


「欅大落ちてきたね。」

「素人集団だし、ウチらが負けるわけないっしょ。ここまで来れたのも偶然だろうし。」

どこからか、誰かの話し声が2人の耳に入る。

チラッと声の方を向けば、西洋大の控え選手がこちらを向いてコソコソと、いや、わざと聞こえるようにしているのか、冷ややかな表情で話しているのが見えた。

あまりいい気分では無かったが、聞こえないフリをしてアップを続ける。
田村は今に見てろと思いながら、拳を握りしめた。


「でもさぁ、お遊びで箱根に出るのはやめて欲しいよねぇ。」

聞き捨てならない言葉に、今度は我慢が出来なかった。
田村は西洋大の控え選手の方へ向かっていく。

「ちょっ、辞めときって!」

小池が田村の手を掴むと、田村は振り向きざまに

「言わせたままやなんて悔しすぎます!これが遊びな訳ないやないですか!?」

と声を押し殺して訴える。

その時だった。

「先輩、それは欅大に失礼じゃないですか?」

誰かが、陰口を言った2人に対して楯突く。
するとその2人は、決まりの悪そうな表情で俯いた。


「すみません。うちの部員が失礼なことを。」

こちらに近づき、深く頭を下げて謝罪したその人は、関有美子だった。
関は西洋大のレギュラーを勝ち取り、8区にエントリーされていた。

頭を上げた関と田村は、目が合う。

「関さん……?」

「確か、田村さん…と、小池さんでしたよね。」

関は確かめるように訊ねる。
お互いに面識はあったが、話すのはこれが初めてだった。

「そうですけど…。」

「先程の部員の発言は西洋大の総意ではないので…。少なくとも私は、欅大の皆さんが本気なことも、お遊びでここまで来たわけじゃないことも知ってます。」

「ありがとうございます…。」

関の言葉に、さっきまでの田村の怒りはいつの間にか和らいでいた。

「でも…。」

関は少し溜めて、言った。

「私たち西洋大にも、プライドはあります。箱根の常連校として、初出場のチームに負ける訳にはいきません。」

関は意思のこもった瞳で、こちらを見据える。

「こっちも負けませんよ。」

田村も負けじと言い返す。

「お互い頑張りましょう。ひかるにもよろしくお伝えください。私はもうあの頃みたいに弱くはないので…。」

「それは関さんが、走りで見せちゃいましょう。」

田村がそう言うと、関は

「…その通りですね。」

と小さく笑って、手を差し出した。

田村はその手を握り返し、お互いの健闘を祈る挨拶を済ませた。

そして2人は手を離し、関は言う。

「欅大は良いチームですよね。ひかるが変われたのも、きっと良いチームに出会えたからなんだろうな…。」

「私たちは何もしていません。ひぃちゃん自身が変わろうともがいての結果だと思います。」

「…そうですか。…これからもひかるのこと、よろしくお願いしますね。裏切ってしまった私が言えることではありませんが…。」

そう言って関は、唇を噛み締めた。

「安心してください。ひぃちゃんのことは私が守ります。」

田村がそう言うと、関は

「頼もしいですね。」

と言って柔らかい笑顔を見せた。


「じゃあ、また後で。」

田村はそう言って、ペコリと一礼した。

「後で。」

関もまた、一礼をして背を向けた。





7区の先頭では、残り3キロ地点でレースが動き始めていた。

トップを走る乃木大1年の山下美月が、6区で2位に浮上した日向大の東村芽依を再び突き放していく。

そして、そんな日向大の少し後ろで、3位を走る鳥居坂大の佐藤詩織が好走。順位を再び上げようと猛追していた。


その遥か後方の塩海橋付近では、順位を2つ落とし、現在13位の位置を走る齋藤が苦悶の表情を浮かべていた。
残りはまだ7キロ以上あるが、明らかにペースが落ちてきていた。

やはり最初の5キロのハイペースと地味なアップダウンが、ここに来て齋藤にダメージを与えていたのだ。

ここで、ユーラシア大が齋藤の後ろにピッタリとついて走る。
そしてしばらくすると、颯爽と抜かれてしまった。

齋藤はそれに付いていけず、ユーラシア大の背中を見送った。
これで見送るのは3人目だろうか。

齋藤は悔しくて情けなくなった。
もっと速く走れたら、こんな思いはしなかったのにな。
悔しい。

でも、慌てちゃダメだ。
タスキを確実に繋ぐ。それが今の私の最大の仕事だ。

齋藤はまた、自分にそう言い聞かせた。


「齋藤さん、聞こえますか。」

ふいに、後ろの監督車から矢崎の声が聞こえる。
齋藤が右手を上げて聞こえてることを伝えると、矢崎は喋り出した。

「お嬢様からの伝言です。また肩に力が入ってるから、深呼吸して。今はこのペースのまま慌てなくていい。ラスト3キロでペースを少しずつ上げていこう。1人じゃない、皆待ってるからね。と。」

矢崎から伝えられた菅井の言葉に、何かが込み上げてくるのを感じた。

そうだ。私は1人じゃない。

この先には保乃が待ってくれてるし、ひかるだって、友香さんだっている。
頼もしいな、皆。

早く会いたい。

そう思った瞬間、色んな思い出が走馬灯のように駆け巡る。

欅ハウスはとにかく居心地が良かった。

誰も人を貶めようとする人なんて居ないし、むしろ優しすぎるくらい人のことを思いやる子ばかりだった。
そんな10人が、箱根駅伝という1つの目標に向かって走り始めて、ぶつかりながらもさらに団結して、よりかけがえのない存在になった。


ノリで走り始めたもんだから、正直走るのが辛かった日があった。
記録が伸びなくて悩んだ日もあった。
辞めようと思った日もあった。

でも…

きっとこのメンバーとなら大丈夫と思えたから、また走りたいって思ったのかも。
そして気づけば走ることが楽しくなってて。

箱根駅伝はもう、友香さん1人の夢じゃない。

いつしか皆の夢になった。


こんなに濃密な1年は、きっとこれからの人生で経験出来ないんだろうな。
皆で一緒に、心から笑ったり怒ったり…
本当に何物にも変えがたい、かけがえのない時間だった。

これが夢であればいいのに。
永遠に覚めない夢の中にいられたら、ずっと幸せでいられるのに…


「ラスト3キロです。ぶちかましましょう。」

矢崎にしては荒い言葉遣いで、後ろから煽られる。

齋藤はすっかり熱を持った筋肉に鞭をうち、スパートをかけた。
沿道の大歓声が、再び齋藤の背中を押す。

今度は声援に飲まれている訳ではない。その声援を力に変え、ひたすら前に進む。

体が、肺が痛い。
でも、ここで怯んでしまえば、ここまでの努力は水の泡だ。
怯むわけにはいかない。

「冬優花さーん!!もう少しですよー!」

田村の声が聞こえた。
その声が、齋藤の最後の力を引き出す。

齋藤は一歩一歩アスファルトを踏みしめて、田村の待つ平塚中継所へ飛び込んだ。

「ナイスランです。」

タスキは一瞬風になびくと、田村の手に渡った。

田村の背中があっという間に遠のいていく。

齋藤は区間16位、欅大の全体順位は14位でタスキリレーとなった。

地面に倒れそうになる齋藤を、小池が咄嗟に支えた。

「ふーちゃん!!エグいスパートやったわ。」

「ははっ、中盤グダグダだったけど…。」

齋藤が自虐すると、小池も

「確かに途中ハラハラしたわ。」

と笑った。

「でも、良い走りやったで。」

そう言って小池は、支えていた齋藤の肩を優しく叩いた。

その言葉が、齋藤の心を少し軽くした。

「ありがと、みぃちゃん。7区、苦しかったけど、楽しかった。」

「うん。」

「あとは、3人に任せるしかないね。」

「あの3人なら大丈夫や。信じよう。」

そう言って小池は、齋藤の背中を優しくさすった。