田村は変わらないペースで、ラスト5キロ地点にある遊行寺の坂を登り始めた。

8区最大の難所と言われる遊行寺の坂が、田村を苦しめる。しかしそれは、他の選手も同じだ。


じわじわと距離を詰めていたユーラシア大との距離をさらに詰め、田村は後ろにピッタリとつく。

この坂が踏ん張りどころだと、菅井にも言われていた。

絶対に追い抜いて、引き離す。

でもまずは耐えて、この坂を登りきらなきゃ…。


田村は懸命に腕を振り、前へと進む。


遊行寺の坂自体は1キロにも満たない緩やかな坂だが、16キロを走った後の体にはかなり応える坂だ。


脚が重かった。まるで泥道を走ってるかのように、上手く前に進まない。


田村は自分に負けそうになった。

苦しい。キツい。

ネガティブな言葉が脳裏に浮かぶ。


追いついていたユーラシア大との距離が、再び開き始めた。



ふいに、沿道にひしめく見知らぬ人々の顔を田村は見た。これから先、途切れることなく大手町まで連なるだろう人垣。励まし、前へうながす人の声。


その中に、藤吉を見つけた。


「保乃!負けるなー!!思い出せー!!」


必死の大声で叫ぶ藤吉の言葉が耳に入り、今朝のことを思い出す。



『保乃が誰よりも頑張ってきたのは知ってるから。きっと大丈夫。合言葉、忘れんとってや。』


今朝送られてきた、藤吉からのメッセージ。


本当に必要最低限な言葉に絞られた藤吉らしいメッセージは、緊張と不安に支配された田村の心を解放した。


そして今この瞬間も、田村を励ます。


合言葉、それは2人が同じチームで練習していた時、苦しくなった時にお互いを励まし合っていた言葉だった。


"苦しくなってからのもう一歩。"


そうだった。

今がまさに、そうだ。


今、もう一歩を踏み出さなきゃ…。

もう一段階、限界を超える…!



夏鈴ちゃん、ありがとな。

保乃、もっと頑張れそうやわ。



田村は疲労の溜まった脚を叩き、無理矢理ペースを上げた。


再びユーラシア大に追いつく。


そして遊行寺の坂を終えた時、田村はユーラシア大の選手を振り切り、突き放していった。






その頃森田は、3位でタスキを受け取り、戸塚中継所から走り出した鳥居坂大の平手の背中を遠くから見送っていた。


鳥居坂大の復路逆転、総合優勝への期待を一身に担った平手の背中は、覇気を纏い、誰も辿り着いたことのない領域へと足を踏み入れようとしているようだった。

こんな凄い人に、自分は挑もうとしているのか。


ふいに、自分が少しだけ弱気になっていることに気づく。レース前の高揚感に変えようとしても、指先が震える。


強がっていても、結局心の奥底に不安は眠っているのだ。



森田は気づけば、菅井に電話をかけていた。


「もしもし。」


ワンコールもしないうちに、菅井と電話が繋がる。


「菅井さん…。」


森田は緊張で詰まりそうな声を絞り出した。


「るんちゃんどしたの?不安なの?」


何かを察したのか、菅井の声がいつも以上に優しく感じて、森田は泣きそうになる。


「いえ…。脚の具合はどうかと思って…。」


つい強がってしまった。

ほんとは、菅井の言葉で安心したかったのに。


「痛み止めが効いて、良い感じだよ。」


菅井の声は揺るぎなく、森田の耳に心地よく届く。


「るんちゃん、てち…平手とは話した?」


「はい、色々と話しました。平手さんの背中を見ていたら、少し弱気になってしまいました。」


「そっか。私は平手とチームメイトだったから、彼女のことはよく知ってる。その上で断言するけど、るんちゃんは凄いランナーだと思う。これからもっと速く、もっと強くなれる。」


「今はまだ、平手さんに勝てないってことですか?」


弱気を拭いきれていなかったので、森田は不安になって思わず聞いた。

すると菅井は、少し間を空けて答える。


「…1年間一緒に走ってきた中で、より強く思う。るんちゃんは私にとって、最高のランナーだよ。私は信じてる。」


ああ。森田の胸は歓喜に満ちた。

菅井さんは私に、かけがえのないものをくれた。


「菅井さん…。」


ありがとうございました。あの春の日、私を追ってきてくれて、私を信じてくれて、認めてくれて。

森田はそう言おうとして、飲み込んだ。


「見ててください。菅井さんの信じたものを。」


空を見上げて、森田はそう伝えた。


曇った空の隙間から、太陽の光が差し込む。


もう森田の奥底にあった不安や迷いは完全に吹っ切れていた。


森田は通話を終えたスマホを小林に預け、ベンチコートを脱ぐと、中継ラインに近づいた。


8区を走り終えた選手が戸塚中継所に到着し、タスキを受け取った9区の選手が走り出していく。


そして西洋大の関もまた、全体の9位でタスキを受け渡した。

脇によけた関と森田がすれ違う。


「ひかる……、私は…ようやくここまで来たよ。」


息を切らした状態で、言葉を絞り出す関。

走り終えた達成感からか、関の表情は晴れやかだった。


「ほんとに強くなったね。私もすぐに追いつくよ。」


関にそう言って、森田は中継ラインに立った。


一足早く、真中大が中継ラインを越えて9区へタスキを繋ぐ。


すぐ後に、田村の姿が見えた。


「保乃ー!!ラスト!」


森田は右手を高くあげた。

タスキを持った手を、田村がのばす。


「ひぃちゃん、あとは頼む!」


荒い息に混じって、田村は叫んだ。

森田の右手に、タスキを強く握らせる。


9区へと飛び出した森田は「任せろ」とでも言ってるかのようにその右手を高く掲げ、戸塚中継所から勢いよく走り去っていった。


欅大は現在13位。田村は区間9位の力走だった。



走り終えた田村は、小林に支えられて待機所までどうにか脚を進める。

そのままビニールシートの上に座り込むと、知らぬ間に何かが頬に流れているのを感じた。


あれ、私泣いてるのか…。

これがほんとの達成感、ってやつなのかな。


「よくがんばった…。凄かったよ。」


小林に背中をさすられ、涙が溢れ出る。


「由依さぁぁぁん!」


衝動的に小林に抱きつき、田村はまた泣いた。


「えええ、そんなに泣く!?」


と小林は動揺しながらも受け入れてくれて、胸を貸してくれた。

ポンポンっと背中を叩いてくれるその手が優しかった。


「…てか、保乃の携帯ずっと鳴ってない?」


小林の問いかけに、耳を澄ましてみる。

確かに、荷物に埋もれた田村のスマホから、着信音が小さく鳴っていた。


スマホの画面には、"藤吉夏鈴"の文字。


「もしもし。」


電話に出る。

しかし、何も反応は無い。


「夏鈴ちゃん?」


問いかけるが、すすり泣く音だけがスマホ越しに聞こえるだけだ。


「夏鈴ちゃん、泣いてんの?」


田村が聞くと、


「泣いてへん……。」


とぶっきらぼうな声が返ってくる。


「何やねん。まぁどっちでもいいけど。」


「だって、保乃が…泣かせてくるから…。」


明らかに涙声の藤吉に、田村は


「いや、やっぱ泣いてるんやん。」


と冷静に突っ込む。

相手が泣くと、何故か冷静になるものだ。


「保乃の頑張りがやっと報われたことが嬉しくて…。」


その言葉に、田村の涙腺は再び崩壊した。


「夏鈴ちゃん…。夏鈴ちゃんのおかげやで。いつも、欲しい時に欲しい言葉くれるから…。」


「違うよ。それは全て、保乃が頑張ったからや。保乃の夢が叶うんは、諦めへんかった保乃のおかげ。」


藤吉の言葉が胸に響く。


「夏鈴ちゃん、ありがとうな…。」


「ううん。でもまだ、見届けなあかんねやろ?最後まで。」


藤吉に言われ、思い出す。

夢はまだ途中だったことを。


「そうやった。じゃあ、電話切るな。見届けてくるわ、夢が叶う瞬間。」


田村がそう言うと、藤吉はうん。と言って電話を切る。


「由依さん急ぎましょう。大手町に早く行かないと、ゴールに間に合いません。」


田村は涙を拭いて、荷物を纏める。

そして、興奮冷めやらぬ戸塚中継所をあとにし、小林と共に大手町へ向けて発った。