誰もが、"復路のエース区間"とも言われる9区の首位争いに目を奪われていた。
トップを走る乃木大の堀未央奈、それを約1分差で追うのが、日向大の佐々木美玲だ。
そしてさらに約1分30秒遅れて、鳥居坂大の平手友梨奈が区間新記録のペースで激走する。
このまま逃げ切りたい王者乃木大と、初優勝を目指す日向商業大、そして奪われた王者の座を虎視眈々と狙う鳥居坂大。
誰が先に体力を使い果たし、ペースを落とすのか。それとも、3人とも今のハイペースのままレースが展開するのか。
実況にも力が入る。
「鳥居坂大の平手は区間新記録ペースで前の2校を追いかけます。表情は余裕がありそうですね。日向大の佐々木はやや苦しそうか?これは順位の変動があるかもしれませんね。」
ここで、映像は中継バイクからの映像へときりかわる。
「こちら中継バイクです。現在13番目を走る欅大の森田ですが、大変なスピードです。平手の1キロ通過タイムを上回っています!」
森田は緩やかな下り坂に乗じて、最初の1キロを疾走していた。
ここで、15秒差で先行していた真中大の選手を抜き去る。
腕時計でラップを確かめる必要は感じなかった。確かめずとも、自分がこれまでになく走れていることが分かる。
調子はすこぶるいい。体が軽くて、足裏と接する路面の感触がいつも以上に滑らかだった。
3キロ地点手前で最初のアップダウンがあるが、森田のペースは崩れることなく、体は上手くリズムに乗る。
周囲の景色と喧噪が、徐々に意識から離脱していく。音は遠くで反響する。
何なんだろう。この不思議な感覚。
まるで、自分だけ異世界にいるかのようだ。
自分の規則正しい呼吸音と心音、足音だけが鮮明に脳内に響く。
もしかして、これは錯覚なのだろうか。
走れているように感じてるだけで、実はとんでもなく遅いペースなのか。
ふいに不安になって、森田は初めて時計を見る。
タイムは悪くなかった。
むしろ、良すぎるくらいだ。
ならば、このまま行こう。
走りを極めたい。誰も到達したことのない領域にたどり着きたい。
純度の高い集中が、森田を再び次元の違う世界へと誘う。
何も感じなかった。周りの音も、景色も、雪が当たる感触も。
ただシンプルに、熱を持った筋肉を動かし続ける。呼吸を繰り返し、酸素を体に行き渡らせる。
"走る"という行為に極限まで入り込んだ森田に、誰も触れることは出来なかった。
「うつくしい…。」
中継を見ていた菅井は、森田の走る姿を見て感嘆とした。
「ひかるちゃん…すごいね。」
隣の梨加は、森田の走りが羨ましくなった。
これだけ走れたら、どんなに気持ちいいのだろうか、と。
でもここにたどり着けるのは、ほんの一握りの選ばれた人だけなのだと、梨加も、そして菅井も分かっていた。
信じたくなくても、思い知らされるのだ。
それは辛いことでもある。
だが、求めずにはいられなかった。
森田のその圧倒的に美しく、強い走りを見ていたいと、誰もが思う。
しばし黙って、菅井と梨加は画面の中の森田を見ていた。しんみりした雰囲気を打ち壊すタイミングで、菅井の携帯に矢崎からの着信が入る。
「お嬢様、森田さんに何か言わなくて大丈夫なんでしょうか?」
今日も不安そうに、矢崎は訊ねる。
「何も言わなくていいよ。」
「しかし…、森田さんはぼんやりして、レースに集中してないように見えるのですが…。」
「逆だよ。」
菅井は答える。
「今、るんちゃんは凄く集中してる。誰も触れてはいけない。妨げちゃダメだ。」
森田は今、次元の違う境地へ至ろうとしている。
だから、触れてはダメなんだ、今は。
「欅大の森田が10キロ地点を区間新ペースで通過します。また1人を抜き、現在11位へと順位をあげました!」
実況が興奮気味に伝える。
たった10人で無謀にも箱根駅伝へ挑戦した弱小チーム。
そのエースがもたらす大逆転劇に、衰えるどころか増していく森田の勢いに、人々は熱狂的な視線を送った。
だが森田は、そんなことを気にすることもなく、ひたすらに高みを目指し走り続ける。