菅井は順調なペースで10キロ地点、京急大森海岸駅を通過した。
動地堂大は7キロ地点で抜き去り、現在8位の位置を走る。
監督車に乗って菅井の後ろを追う矢崎は、感極まっていた。
菅井の走る後ろ姿が、いつになく逞しく思える。
走り始めたばかりの幼い頃も、故障で走れなくなった時も、乗り越えて再び走り始めた時も……
矢崎は執事として、菅井の紆余曲折な陸上人生をずっと側で見守り続けた。
だから今、菅井が夢の舞台を走っていることが嬉しくて堪らなかった。
それと同時に、やるせなさが襲う。
順調に見える菅井の走りに感じ始めた違和感。おそらく、膝が痛み出している。
矢崎の胸中は複雑そのものだった。
ふいに、昨日菅井に言われた言葉を思い出す。
『じぃや、今まで支えてくれてありがとう。正直、膝の状態はギリギリだから途中で何かあるかもしれないけど…最後まで走らせて欲しい。』
『お嬢様、あまり無理をされない方が…。これからも走り続けるのであれば_』
『_もうこれが最後だから。明日が最後。後悔はないよ。最高の仲間と、この箱根駅伝を走り抜く。10人の戦いを綺麗に締め括る。それだけ。』
その声と瞳に、迷いは無かった。
何も言えなかった。
こんなに純粋に走りたいと願う彼女が、何故このような運命に…。
どうかせめて、この箱根路だけは満足の行く走りを最後までさせてあげて欲しい…。
「お嬢様、良いペースです。前を行く喜久井大との距離は縮まってます。今のペースのまま行けば追いつけます。」
5キロ地点では黙っていた矢崎は、レースの状況をあえて菅井に伝えた。
情報を伝えることで、さらに菅井が無茶をするのではないかと思い、躊躇っていた。
でも、菅井のより良い走りを実現するために矢崎が出来るのは、これくらいだった。
「無理をするなと言ってもあなたは聞かないのでしょうから、私からはこれだけです。悔いの無いよう、自分の走りを最後まで貫いてください。」
矢崎は、自分の想いも込めて監督車からそう伝えた。
それを聞いた菅井は、込み上げてくる色々な想いを堪えながら、右手をあげる。
一歩を踏みしめる度に、左膝が軋むように痛み始めていた。
痛み止めの効果はもう切れているらしい。痛みのせいで体からは、脂汗が滲み出てくる。
それでも菅井は、今のペースを落とすことなく走り続けた。
空には分厚い雲がかかり、雪がはらはらとまばらに降っていた。
確かあの日も、こんな天気だった。
6年前
同じように雪が降り頻る冬の日。
陸上の強豪校で毎日、レベルの高いチームメイト達と切磋琢磨していた菅井に悲劇が起きた。
試合で転倒した選手を飛び越えた時に着地した瞬間だった。
体の中で骨が砕けるような音がした。
元々膝の痛みはあったが、ずっと誤魔化し続けていた。
止まるのが怖かったんだ。
平手と肩を並べられる程に記録は伸びていたし、立ち止まることでまた引き離されるんじゃないか、ここまでの努力が無駄になるんじゃないか。
そんな意地にも似た思いが、菅井を走らせ続けた。
しかし無理な着地がきっかけとなって、左膝は誤魔化せない程の状態に陥る。
診断は左膝の剥離骨折。すぐに手術した。
そこからは苦難の連続だった。
必死のリハビリのかいもあって夏には競技復帰したが、怪我前のような記録には遠く及ばなかった。
それどころか、膝の痛みは治ったり悪化したりを繰り返し、満足な練習も出来ない日々。
焦りばかりが募っていき、遂に菅井の心は折れた。
走ることに全てを懸けてきたのに、裏切られた気分だった。
もう走ることは辞めて、普通の学生生活を送ろう…。
そう考えていた時だった。
『友香、本音を教えて。走りたいの?走りたくないの?』
守屋にそう問われた時、菅井の中で迷うことなくひとつの答えが浮かび上がった。
"走りたい"
それ以外の答えなんて、無かった。
ならば自分の心が希求するままに、やりたいことをやり通そう。
たとえ何も成し遂げられなくても、心から求めることを追い続けたい。
菅井は決意した。
どんな形でも走ろうと。
平手は菅井を支えてくれた。体が出来上がれば故障も完全に治癒するかもしれない。ならば、レベルの高い鳥居坂大で一緒に走ろう、そう誘ってくれた。
でも菅井は、何の環境も整ってない欅大をあえて選んだ。
走ることを、もう一度見つめ直したかったからだ。
走ることを知らない人たちと共に。
菅井は常に隣で支えてくれる守屋とともに、走り続けながら機会を待ち続けた。
そして、今の欅ハウスのメンバー達と出会った。
皆何かを背負い、それでも必死に生きていた。
何かを変えたくてもがいていた。
そんな彼女達に、シンパシーを感じた。
菅井はその底力に懸けてみることにした。
そして、彼女達と走ることを通して繋がり、本当の意味での仲間になった。
誰しもが無理だと笑った夢物語に、ついてきてくれた。
最高のチームだ。
ようやく手に入れた、希望の形だ。
絶望したこともあった。
やっぱり無理なんじゃないかと、走ることを諦めかけたこともあった。
でも違った。
走りは、前よりももっと美しい形で蘇り、私のもとへ還ってきてくれた。
うれしい。涙が出そうなほど、叫びたいほど、喜びで胸は満ちる。
たとえ、二度と走れなくなったとしても。
こんなにいいものが与えられたのだから、それでもう、私は充分なんだ。
13キロ地点にある八ツ山橋のゆるやかな上り坂で、菅井は喜久井大の選手を振り切った。
菅井は右にカーブしながら、品川駅前へ下っていく。
雪は降り止んでいた。