午後1時過ぎ
東京駅構内から、森田と梨加は丸の内方面へ走り出た。
森田は視線をチラチラと右手のスマホへ向けて、テレビ中継を見ながら皆が待つゴール地点の大手町へ向かう。
菅井が13キロ過ぎを走っている頃だった。
人でごった返した大手町で、欅大のジャージを纏った一行を見つけた森田は、一目散に駆け出す。
「皆さん!お疲れ様です!」
森田が人混みをかき分けて声を張り上げると、森田にいち早く気づいた田村が手を振る。
「ひぃちゃん、区間新ほんとにおめでとう!凄かった!」
「ありがとう。」
「ひぃちゃんならやってくれるって思ってたで。」
田村がそう言うと、隣の小林も
「有言実行だね。さすが。」
と森田を褒めた。
他の皆も、思い思いに森田を褒めた。
嬉しい言葉をかけてくれたり、髪の毛をぐしゃぐしゃにして褒めてくれたり。
ほんの1日ちょっと会ってなかっただけなのに、凄く久しぶりに再開したような懐かしさが、森田は心地よかった。
ああ、ここは私の居場所なんだ、と改めて実感する。
テレビ中継には、喜久井大を抜き、7番目に立った菅井の姿が映し出された。
それぞれのスマホを共有し合い、画面を凝視する。
アナウンサーは
「欅大の主将、菅井が快走を続けています。」
と言った。
「違う…。」
森田は誰に言うでもなく、つぶやく。
菅井の15キロの通過タイムは、乃木大の白石に次いで区間2位だった。
どう見ても順調なのだが、何かが違う。
菅井の額に浮かぶ汗の量が尋常じゃない。フォームもどこか、違和感を感じる。
順調に見える菅井の走りに感じた違和感に気づいたのは、森田だけではなかった。
「友香、脚かなり痛みだしてるね…。」
守屋が言う。
「今朝、痛み止めを打ってもらってましたけど…もう効果切れたんですかね…。」
森田が言うと、守屋は悔しそうに唇を噛み締めた。
「痛み止めか…やっぱりかなり悪いんだ…。」
「…知らなかったんですか?」
森田は驚いた。
守屋にさえ、痛み止めのことは言ってなかったらしい。
「友香は何も言わなかったけど、ずっと見てたら何となく分かったよ。ああ、あんまり良くないんだろうなって。それと、友香の覚悟も…。」
守屋は複雑な胸中を吐き出した。
『友香、お願いだから無理はしないで。膝、また悪くなってるきてるでしょ?』
箱根駅伝の1ヶ月前、菅井の異変に勘づいた守屋は菅井を問いただした。
すると菅井は、全てを悟ったような柔らかな顔で笑った。
『茜には何でも見破られちゃうね。でも止めないで欲しい。』
『どうして!?今度こそ、本当に走れなくなるよ?私は友香に走り続けて欲しいの…。』
私の我儘だった。
友香に走り続けて欲しいという、願望だった。
でも当の本人は、とっくに腹を決めていた。
『走ることが好きだから。だからこそ、永遠に走ることよりも、今この瞬間を走り抜くことを大事にしたいの。』
何かを諦めたような、それでいて決意も混じったような強い瞳を宿した菅井がそこにいた。
現実は残酷だと思った。
ここで終わって良いような人では無いはずなのに。走ることをこんなにも愛しているのに。
神様はいつだって、菅井を普通には走らせなかった。
でも、菅井はどんな時も負けなかった。
どんな逆風に吹かれようが、立ち向かい続けた。
今だって、こんな状況でも前を向いて進み続けてる。
ここまで覚悟を決めてるなら、背中を押すしかないと思った。
ねぇ友香…。
友香は今何を思ってるの?
分からないけど、友香にとって良い感情であればいいと、守屋は願った。
品川駅を過ぎたあたりから、高いビルが目立ち始める。
菅井は16.6キロ地点の芝5丁目の交差点を左に折れ、日比谷通りに入った。
車線が広がり、いよいよ都会らしい風景になる。
左脚はいまや、地面を蹴るたびに熱く鋭い痛みを感じさせるようになっていた。
もうシード権内の順位だし、欅大は初出場で、しかもたった10人で良くやったよ。脚が痛いんだから、無茶はせずにゴールさえすればいい。
私の今の状況を知った人は、そう言うかもしれない。
でもダメだ。それじゃダメなんだ。
そんなことをすれば、過去の自分の努力も、ここまでの皆の走りも裏切ることになる。
それにわたしには、残念ながら陸上選手としての未来はもう残されていない。
ならば、今の自分に出来る最大限の走りを以って、この長い陸上人生を、そしてこの10人での無謀な挑戦を綺麗に締め括る。
それこそが、これまでの自分に対するケジメだ。
菅井は加速した。
前に見えた四谷大の背中を追う。
徐々に背中が近づいてくる。
加速に耐えかね、左膝が軋んだ。痛みが神経を直接掴んだのかと思うほどに。
声にならない叫びを押し殺す。
菅井は思わず笑いたくなった。
どうしてこうも、思い通りに行かないんだ。
あと少しなのに。
もう少し、耐えて。
もう少し、思うままに走らせて…!
菅井は痛みに耐え、減速することなく走り続ける。
20キロ地点で四谷大の右側についた。
四谷大の選手も引かなかった。粘って食いついてくる。そのまま並走していく。
ああ、脚が痛い。呼吸も苦しい。あと3キロもあるんだ…。
ゴールまで持つのかな。無理な気がしてきた。
ふいに出てきた弱い自分が、諦めろと諭す。でもすぐに、それを振り切った。
ダメだ。諦めるな。ここで諦めたら、今度こそ本当に、大切な何かを失ってしまう。せっかく取り戻せたものを、また幻にするわけにはいかない。
絶対に諦めない。
走り抜けてみせる。
走れ。全力で走れ。
菅井は四谷大の一歩前に出た。
長年積み重ねてきた経験値からなのか、単なるレースでの勘なのか分からないが、光が差し込むように、"今だ"と感じた。
軋む左脚の痛みに耐え、四谷大との距離を離していく。
菅井はこの瞬間が、1番好きだった。
駆け引きに勝利し、相手を突き放す瞬間が。
やっぱり走るのって楽しいなぁ。
こんなに楽しいと、欲が出てしまうじゃないか…。
ずっと前に吹っ切ったはずの、走りへ対する未練が込み上げてくる。
もっと走りたい。
走り続けたい。
菅井にとって走ることは、生きることと同義だった。
それを捨てる覚悟で臨んだ箱根で、また走る楽しさを思い出してしまった。
残酷だ。もう走れなくなるかもしれないのに。
でも、決して不幸などではない。
可哀想でもない。
だって今この瞬間が、幸せだから。
10人分の想いを背負った重たいタスキを肩にかけ、箱根路を走れている今、この瞬間が、とにかく幸せだから。
残り1キロ。
首都高速の高架に覆われた日本橋を渡る。
橋を渡り切って左折すると、地鳴りのような歓声が押し寄せてきた。
ゴールまでの残り800メートルは直線だ。
ビル風が、菅井の推進力を奪う。
しかしどんなに強い風に吹かれても、菅井は真っ直ぐ続く道をひたすらに進み続ける。
やがて菅井は前方に、求め続けていたものを見た。
"東京箱根間往復大学駅伝競争"と書かれた横断幕の下に、欅大のメンバーが立っていた。菅井に向かって叫んでいた。
ゴール地点だ。
とうとうここまで辿り着いたんだ。
菅井はまた一段、加速した。
あと少し。
1秒でも速く、そこに辿り着きたい。
上体をやや前傾させ、ラストスパートをかけた。
その時だった。
左膝の骨が、ぱきりと音を立てた。
その瞬間だけ大観衆の声援が途絶える。
あまりの衝撃に、全身から脂汗が滲み出る。
菅井はよろけた。
左脚で、自分の体重を支えられなかったのだ。
嘘だ…。
最後の最後にこんなことって。
いや、嘆いてる暇はない。
進まなければ。
目の前で、仲間が私の帰りを待っている。
菅井は左脚を踏み出し、地面を蹴り上げた。
声にならない痛みに耐え、歯を食いしばってどうにか前へと進んでいく。
前を向くと、欅大の皆は泣き顔でこちらを見て、叫んでいた。
そんな顔しないでよ。
私は今、幸せなんだから。
みんなと走れたこの1年間は、何物にも変えがたい、かけがえのない時間だったんだから。
待っててよ。
もうすぐ着くからね。
みんなが繋いだ217キロを、ここで終わらせたりしない。
あと100メートル。
菅井は胸元のタスキを握りしめ、ひたすらにゴールに向かった。