夢中で練習していたら、気付けば夜になっていた。

コンクールから一夜明け、小林はすでに前へと進み始めていた。


「小林さん、お疲れ様でした。小林さんが指摘してくれたところ、調整してみます。」

一緒に居残って練習していた藤吉が言った。

藤吉は昨日のコンクールの責任を感じているらしい。
自分も動揺してしまって、崩れてしまった、と。

「夏鈴ちゃんならすぐ取り戻せるよ。」

小林がそう声をかけると、藤吉は頬を掻く。

「…そうですかね。ありがとうございます。では。」

ペコっと頭を下げて、藤吉が教室から出ていく。

「おつかれー。」

小林も続けて教室を後にし、鍵を閉める。

いつも通り職員室に鍵を返し、昇降口へと向かった。


やがて、遠くから花火が打ち上がる音が聞こえ始める。

花火大会行きたかったな…
みいちゃんは上手くやってるかな…

なんて想いを馳せながら上履きを脱ぎ、靴箱に入れようとした。

その時、誰かが小林の腕を掴んだ。

「待ちくたびれた。…行くぞ。」

ジャージ姿の理佐だった。

予想外の出来事に、小林は驚きを隠せない。

「えっ?何で理佐がいるの。花火行ってたんじゃないの?」

「こばの練習終わるの待ってた。俺も練習で行けなかったからな。ほら、ちょっとついてきて。」

理佐はそう言うとそそくさと校舎内を歩いていく。

「え、どこ行くの?花火なら絶対間に合わないと思うけど!」

小林が言うと、理佐は振り向いて悪い顔をした。

「それがさ、見れちゃうんだな。いいから付いてきて。」

理佐に言われるがまま、小林は校舎を歩く。

階段を上っていき、たどり着いたのはお馴染みの屋上だった。

屋上のドアを開け、一歩足を踏み入れると遠くに見えるたくさんの打ち上げ花火。


「わぁ…すごい…。」

思わず感嘆の声をあげる。

「な?ここ実は結構穴場だと思うんだよ。」

ドヤ顔でそう言った理佐は、屋上に設置された柵に腕をもたれかける。

「なんかドヤ顔なのムカつくけど…でも嬉しい。花火見れないと思ってたから。これ見せてくれるために待ってたの?」

小林が聞くと、理佐はしどろもどろに答える。

「…いや…まぁ…ほら、その……昨日こば落ち込んでたからさ…。ちょっとくらい気分転換も必要かなぁって。…放っとくと、頑張りすぎるだろ?」

俯き気味に話す理佐の耳が、少し赤らんで見えた。

それは花火の灯りが照らした赤さだったのか、それとも…

「…ありがと。その気持ちが1番嬉しい。」

「…うん。」


2人の間には、花火が打ち上がる音だけが響いていた。


小林はチラッと理佐の方を向く。

真っ暗な夜空に打ち上がる花火を、ただ静かに見つめる理佐。
その横顔は、どこか憂いを帯びていた。

今理佐は、何を考えているのだろう。
その花火を見ながら、誰を想っているのだろう。

ふいに頭に浮かぶ土生の言葉。

"理佐は多分、友香のことまだ好きだよ。"

胸の奥がズキンと痛む。

どうして今そんなことを思い出して、胸を傷めたのだろうか。

その理由は分からない。

ただ、今この瞬間が終わらないで欲しいと願う自分がいることは確かだった。


しかし無情にも、花火はすぐに終わった。

花火の終わりと同時に、湿気を帯びた生温い風が吹いた。

髪の毛が揺らぐ。

理佐が顔にかかった髪をかき分け、小林の方を向いた。

同じタイミングで、小林は理佐を見る。

一瞬視線が交わり、すぐに逸らす2人。

音が消えた世界で、鼓動だけが響く。


「……。」

「…花火、綺麗だったね。」

先に沈黙を破ったのは小林だった。

「うん…。」

「お陰様で、良いリフレッシュになったかも。」

「それなら良かった…。」

「……最近どうなの?」

話題に困ってしまって、苦し紛れに出した質問。

理佐は下を向いて、ポツリと溢す。

「…なかなか上手く行かない。」

「そっか。理佐もなんだ…。」

「平手が…あ、俺のライバルなんだけど、そいつがインターハイで優勝したんだ。高校記録まであと一歩っていう凄い記録出して…。それなのに俺は、過去の自分の記録すら超えられないでいる。…正直毎日焦ってる。」

理佐は俯いたまま、「でもさ…。」と続けた。

「練習中に聴こえてくる、こばの吹くサックスが俺を勇気づけてくれてる。」

そう言って理佐は小林の目を見て、小さく笑った。

その瞬間、小林の胸の中に閉じ込めていた様々な想いが解放されるように溢れる。

音楽をやる意味。

誰かの力になれているという実感。

それが今の理佐の言葉に全て込められていて、ストンと何かが腑に落ちたような感覚に陥る。

「そう言ってくれて嬉しい。なんか…自分の音楽を聴いて、そう思ってくれる人が1人でもいるってだけで、励まされる…。」

「…俺が雨の中、学校飛び出した日あっただろ?」

「ああ、土生くんと理佐が喧嘩した時ね。」

「そうそう。その次の日、こばのサックス聴いてなかったら俺はハイジャンに復帰出来てなかったかもしれない。何度でも言うけど、ほんとに感謝してるんだ。」

理佐は真剣な眼差しで小林を見る。

再び2人の視線は交わり、小林の鼓動が速まる。

沈黙の間。

どれくらい続いたのだろう。

2人は見つめ合ったまま、ふいに理佐が小林の頬に優しく触れた。

小林は一瞬ビクッとして、目を逸らす。

「あっ、ごめん…。」

理佐は慌てて手を退け、「何やってんだ俺…。」と小さく呟いた。

暴れ狂う鼓動。

動揺した心と混乱した頭。

何も考えられなくて、ただ沈黙のまま、時間だけが過ぎていく。


そんな2人を、ふいに何かの光が照らした。

眩しくて細めた目で、その光の方を見る。

光の正体は、見回りの警備員の懐中電灯だった。

「君たち何をしているんだ!!」

怒声が屋上に響きわたる。

瞬間、自分達は夜の学校の、しかも立ち入り禁止の屋上にいるのだと思い出す。

「やっば!逃げるぞ!」

理佐は慌てた様子で小林の腕を掴み、走り出した。

それに引っ張られるように小林も走り出す。

「待ちなさい!」

警備員は血眼になって2人を追いかける。


必死に階段を駆け下り、廊下を全力でダッシュする。

目の前には小林の手を引っ張って走る理佐。

この光景、出会った日の夜みたいだ。

何故だか懐かしくなって、こんな状況なのに小林の表情は緩む。


「こっち!」

理佐が鍵の開いた空き教室のドアを開け、小林を引っ張り入れた。

あまりの勢いに転けそうになるのを、理佐が体全体で受け止める。

まるであの日の夜が忠実に再現されているかのように、小林は理佐の胸の中にスッポリと収まった。


慌てて理佐の胸から離れる小林。

「…ごめん…!」

「警備員が遠くに行ったら、その間に外に出よう。」

理佐は何事も無かったかのようにドア越しに外を見た。


動揺してるのは自分だけなのか…

なんて、少しだけショックを受けている間に、警備員の足音らしき音が徐々に遠ざかっていく。


「今だ。急ごう。」

理佐は冷静な様子で小林に合図した。

忍び足で走り出す理佐に、小林は慌ててついて行く。

校舎内を無事にすり抜け、校門へと走る。


閉められた校門。

理佐はいとも簡単に、校門の両側にある塀に飛び乗った。

「掴まって!」

塀の上で手を伸ばす理佐。

小林は上から伸ばされたその手をしっかりと掴み、引き上げてもらう。

降りる時も手を貸してくれて、無事に地面に着地すると、2人は再び走り出した。

「何とか脱出出来たな!」

少し楽しそうな理佐は、走りながら言う。

「スリル満点だったね!」

小林もまた、この状況を楽しんでいた。

今まで真面目に生きてきた小林にとって、夜の屋上に忍び込むこと自体が非日常だった。

そして何より、理佐と花火を見れたことが嬉しかった。


ふいに、母に言われた言葉が脳内を巡る。

『きっと、音楽があなたと誰かを繋げてくれると思う。』

その言葉の意味が、今分かった気がした。

自分の音楽が今まさに理佐の力になっていて、そのおかげで今がある。

音楽を通じた、大切な友達との繋がり。

いや…


好きな人、かな。


小林は立ち止まった。

激しく鼓動する脈。切れた息。熱って汗ばんだ体。回らない頭。

走ったせいなのか、それとも別の理由なのか。

ただ、ほんとの気持ちに気づいてしまった瞬間、内側から溢れ出す想い。

小林は堪え切れずに叫んだ。

「理佐!」

その声に、理佐は立ち止まって振り向く。

「ん?」

不思議そうに小林を見る理佐。

「…好き…!」

小林は叫んだ。

同時に、2人の横の車道を走り抜ける車。

「…ん!?ごめん!聞こえなかった!」

叫ぶ理佐。

瞬間、小林は我にかえる。

一気に恥ずかしさが込み上げ、つい誤魔化す。

「…は、走りすぎて疲れたって言ったの!」

「…ふっ。何だそれ。」

理佐は呆れたように笑い、小林の元へ歩み寄る。

距離が近くなるほどに激しさを増す鼓動。


「ゆっくり帰ろっか。」

理佐はそう言って小林の目の前で微笑む。

「…うん。」

何も言えなくなって、小林は黙って理佐に付いていく。



もしこの時、理佐に想いが伝わっていたら、私たちの関係は何かが変わっていたのだろうか。

たった1つのすれ違いをきっかけに、私たち4人の関係が変わっていくなんて。

この時は考えもしなかった。