吹奏楽コンクールの都道府県予選、本番の日が訪れた。
部員全員で円陣を組み、顧問が部員に声をかける。
「目標は全国金賞。今日はまだ序章に過ぎない。いつも通り、確実に誠実に演奏すれば何の問題も無いはずだ。でも、まずは楽しむ心を忘れずに。…よし、行こう!」
「「はいっ!」」
気合を入れて、ステージの袖でスタンバイする。
袖から見える客席。
コンクール独特の緊張感。
そして、去年は無かったソロパートの重責。
小林はこれまでに無いほどに緊張していた。
飛び出そうなほど拍動する心臓を落ち着かせるように、目を閉じて大きく深呼吸した。
「小林さん、大丈夫ですか?」
隣から、テナーサックスの1年、藤吉夏鈴が声をかけた。
「うん。さすがに緊張しちゃって…。」
「ですよね。私も緊張してます…。」
「頑張ろう。」
小林は自分自身も奮い立たせるように、藤吉の手をギュッと握る。
「小林さん、手冷たいですね。」
藤吉は小さく笑いながら言う。
それにつられるように
「緊張で血の巡りが…。」
なんて冗談めかして笑った。
『10番、櫻坂高校。』
ナレーションが聞こえ、いよいよステージに立つ時間が来る。
「よし。」
と小さく呟き、ステージ上の定位置へと移動する。
大きな拍手が鳴り響き、それが止んだ時、顧問が手を振り上げ演奏が始まった。
ただただ無我夢中に演奏し、いよいよ小林のソロパート。
小林は立ち上がり、リードを咥えて構える。
静まり返った空間。
そこに、自分の音だけが響く。
何度も何度も練習した。
だから分かる。
緊張のせいなのか、全く本調子じゃない自分の音。
動かない指。
その事実に動揺し、さらに音を外す。
そのままソロパートは終了し、再び様々な楽器の音が重なり合う。
やってしまった。
小林は激しく動揺していた。
その後のパートは散々だった。
普段なら問題なく吹ける音も、上手く吹けない。
トップを吹く小林につられるように、サックスパートの旋律は崩れ始める。
幸い他のパートの音は安定していたから全体の演奏が大きく崩れることなく、小林は途中からどうにか持ち直した。
しかし、代償は大きかった。
演奏終了後、小林は唖然としたまま、控え室の隅でへたり込んだ。
「ゆいぽんどうした?」
吹奏楽部で小林と1番仲の良い、トランペットの上村莉菜が小林の背中をさする。
「…由依さん…大丈夫ですか?」
パーカッションの森田もまた、小林を心配していた。
「…分かんない…でも、指が思うように動かなくて…ブレスも全然…。」
喉の奥がツーンと痛み、涙が溢れ出しそうになる。
慌てて上を向いて、目の縁に溜まった涙を指で拭い、今は泣くな。と心に念じる。
そんな小林を、上村がギュッと包み込む。
「大丈夫。ゆいぽんが誰よりも頑張ってることは知ってる。あまり自分を責めないで。」
「莉菜…。ありがとう。」
上村の言葉に、小林は唇を噛み締めた。
結果発表の時間まで、小林は涙を必死に堪えた。
『結果を発表します。1番〇〇高校…銀賞』
司会が淡々と結果を読み上げていき、様々な感情がホールに溢れる。
喜ぶ人々、悔しくて泣く人々…
自分達は、どちらになるのだろう…
『10番櫻坂高校……』
隣の上村の手をギュッと握り、金…金と念じ続ける。
『ゴールド金賞』
発表された瞬間、周りから喜びの悲鳴が上がる。
安堵したように、小林は一粒の涙を流した。
一部演奏が崩れた部分があったものの、演奏全体のまとまりが評価されての金賞だった。
無事、コンクールの支部予選へと駒を進めた櫻坂高校。
しかし、小林への風当たりは厳しかった。
コンクール後の反省会、吹奏楽部のメンバーからサックスパートへ苦言が呈された。
「途中、ソロの小林さんが音を外しましたよね。そこまでは百歩譲って仕方ないとして…ただ、その後も持ち直すことなく、パート全体が崩れてしまった。今回他パートが良くて金賞が取れたから良かったものの、次回までに修正してもらう必要があるとおもいます。今回の自由曲は、サックスパートに重責が課されてますから、最悪の場合、メンバー交代も考えた方がいいかと。」
「…申し訳ありません。これは完全に本番を想定出来てなかった私のミスです。」
小林は返す言葉も無く、ただ謝る。
思い出す、過去の映像。
冷たい視線と、心無い言葉の刃。
誰も助けてくれなくて、ただ1人、じっと耐えていたあの時。
って今は、そんなこと思い出さなくていい。
目の前のことと向き合わなきゃ。
小林は過去を振り払い、現在に戻ってくる。
涙を必死に堪え、ごくりと唾を飲み込んだ。
油断してしまえば、決壊したダムのように涙が溢れ出すだろう。
「…あの…。」
重い空気の中、恐る恐る1年の森田が手を挙げた。
「森田さん、何?」
部長はイライラを前面に押し出し、森田を指名する。
「…これって反省会ですよね?由依さんが失敗したのは事実ですけど…僕にはそれをただ責め立てる会にしか見えません。他のパートは何ひとつ反省する点は無いんですか?」
森田がそう言うと、見かねた顧問が良く言ったと言いたげな表情で立ち上がった。
「森田の言う通りだ。お前らこれじゃ、演奏力以前の問題だぞ。失敗した者をただ責め立てるだけ…これじゃ、良い演奏なんて出来ない。もっと考えろ。」
そう言って、顧問は部屋から出て行く。
重苦しい雰囲気の中、再び森田が口を開く。
「…だそうですけど…。サックスパートが崩れた時、トランペットが上手く調整してくれたおかげで戻せたと思います。でも__ 」
森田は淡々と今日の演奏についての分析を伝えていく。
その分析は的確で、上級生も舌を巻いた。
「ありがとう、森田くん。私たちも大切なことを忘れてた。視野が狭くなってた。ごめんなさい。」
そう言って部長は頭を下げた。
そして気を取り直し、改めて反省会を取り仕切る。
「じゃあ、改めて反省点をまとめます。まずクラリネットは__ 」
___
_
「ありがとう、ひかる。」
反省会後、小林は森田に礼を言った。
森田の助けは想像以上に小林の心を救っていた。
「いえ。思ったことを言っただけですから…。」
森田は少し恥ずかしげに下を向く。
「まぁ…私が失敗したのは事実だし、反省しなきゃいけないところは山積みなんだけど…。あの時ひかるが言ってくれて無かったらもっと責められてただろうし…そうなったら耐えられなかったかも。」
そう言って小林は眉を下げ、困ったように笑う。
また少し泣きそうになるのをぐっと堪えた。
後輩の前で泣くわけにはいかない。
「…由依さんは凄いですよね。俺だったら、あんな状況耐えられなくて逃げ出しちゃいます。ほんと尊敬します。」
「ひかるが思ってるほど、強く無いけどね。ほんとは逃げ出したい時もたくさんある。」
小林は上を向き、涙を堪える。
これ以上ここに居れば本当に泣いてしまいそうだったから、誤魔化すように立ち上がった。
「じゃあひかる。また明日ね。今日はゆっくり休みなよ。」
ちょっとだけ先輩っぽく接して、小林はその場から立ち去ろうとする。
それを森田が呼び止めた。
「由依さん!」
「ん?」
「…大丈夫ですか?無理しないでくださいね…。」
心配そうにそう投げかける森田に、小林は精一杯笑ってみせた。
「大丈夫だよ。1日寝れば復活する。」
そう言うと、森田はそれ以上何も発さなかった。
少し移動して、人気の少ないグラウンドの隅の石段に腰掛ける。
1人になった瞬間、我慢していた涙がとめどなく溢れてきた。
悔しくて、自分が情けなくて、今後が不安で…
考えれば考えるほど、暗闇へと引きずり落とされる。
そんな小林に、1人の人物が声をかけた。
「…こば、何でそんなに泣いてるんだよ…。」
その聞き覚えのある優しい声に、小林は涙を拭い顔を上げる。
眉を下げ、心配そうな顔をした理佐が、目の前に立っていた。
「理佐…どうしてここに…。」
「どうしてって…グラウンドで帰る準備してたら啜り泣く声が聞こえて…そしたらこばが泣いてたから…。」
「…見られちゃったか…。あー、恥ずかし…。」
小林は上を向き、目に残っていた涙を指で拭う。
そんな小林の手を理佐が掴む。
「泣きたかったら泣けよ。我慢しなくて良いよ。」
その言葉に、止めようとしていた涙がまた溢れた。
そして泣きながら、ポツリポツリと涙の理由を理佐に話す。
「…コンクール…失敗しちゃったんだ…。リハーサルまではちゃんと出来てたのに…本番で手が思うように動かなくて…。」
「うん…。」
「自分が情けなくて…悔しくて…。」
「うん…。」
「………。」
「隣にいるから。泣きたいだけ泣けよ。」
理佐は小林が泣いているのを隠すように、小林の頭にタオルをかける。
ふわっと柔軟剤の香りが広がって、それに何故だか安心感を覚える。
「…ありがと…。」
「うん…。」
小林は泣き続けた。
どれほどの時間泣いたか分からなくなるくらい、泣いた。
理佐は何をするでもなく、ずっと隣で黙って座っていた。
___
小林の涙がおさまったころ、小林が言葉を発する。
「タオル…洗って返すね…。」
「おう…。」
「ごめん、すっかり遅くなっちゃったよね…。帰らなきゃね。」
「送ってくよ。」
「えー、いいよ。いつも1人で帰ってるし。」
「1人でいるより、誰かとどうでもいい話してた方が気が紛れるだろ?あ、まぁ1人になりたかったら…やめとくけど…。」
理佐は頭を掻き、少しぶっきらぼうに言った。
その不器用な優しさがくすぐったくて、思わず笑みが溢れる。
「ありがと。じゃあお言葉に甘えて、送ってもらおうかな。」
2人はたわいもない話で盛り上がりながら、家へと帰る夜道を歩く。
思ったよりも話が弾んで楽しくて、あっという間に小林の家に着く。
「今日はありがと。理佐のおかげで少し元気出た。」
「なら良かった。じゃあ、今日はゆっくり休めよ。」
「うん。理佐もね。」
「うん。…じゃあ、また。」
理佐はそう言って小林に背を向ける。
小林は家に入り、一直線に自分の部屋へと向かった。
ベッドに飛び込み、顔を埋める。
そのタイミングで連続で鳴り響くスマホの通知音。
理佐からのメッセージだった。
『言い忘れたけど、こばなら絶対大丈夫。また前に進める。』
『前、こばが言ってくれた言葉をそのままお返しする。』
『でも無理はするなよ。』
途切れ途切れに送られてくる絵文字のないメッセージ。
ほんと、こういうところ不器用だよね。
って心の中で呟き、自然と笑みが溢れる。
でも、自然とパワーが湧いてくるような、そんな気がした。
また明日から頑張れそうだ。