数時間後

また跳びたいという想いと共に

理佐は陸上競技場に設置されたバーの前に立っていた。

前とは違う感情だからか、目の前に広がる景色は明るく見える。


しかし、吹っ切れたと言ってもハイジャンに対する恐怖心が消えた訳ではなかった。

震える足、高鳴る心臓。
以前と全く同じ反応を見せる身体に、思わず呆れてしまう。

強い気持ちを持っていても、身体は正直らしい。

理佐は大きく深呼吸し、目を瞑る。

大丈夫。跳べる。

自己暗示をかけ、理佐は踏み出した。

一歩一歩、助走で勢いをつける。
徐々に近づくバーとの距離。

踏み切り位置は合ってる。
イメージも出来てる。
あとは、思いっきり踏み込むだけ。

なのに…

理佐の体はバーを飛び越えることなく、横切ってしまう。

無意識のうちに避けてしまったのだ。

理佐はゆっくりと立ち止まり、項垂れるように膝に手をつく。

やっぱりダメなのか…。

いや、もう一回。
何度だって立ち向かってやるよ。

頭の中に出てきた、弱いもう1人の自分を振り払い、理佐はもう一度バーに向かう。

しかし、結果は同じだった。

もう一回。
もう一回。

そうやって何度もバーに立ち向かったけど、跳べなかった。

理佐は再び膝に手をつく。
言いようのないもどかしさが押し寄せる。

何がダメなんだ。
どうしたらいい。

頭で色々なイメージを膨らませるけど、どれも上手くいかない。

だけど、諦めたくはない。

理佐はもう一度立ち上がり、バーの前に向かおうとする。

そんな理佐の行手を、2人の人物が阻んだ。

「理佐、ゆいぽんに1人で抱え込むなって言われなかった?」

「お前ら…何で…?」

土生と山﨑だった。
理佐は驚いて足を止める。

「理佐なら戻って来るって信じてたよ。俺達にも協力させてよ。」

優しく微笑みかける土生。
何故だか一気に心が軽くなった気がして、理佐は内から込み上げるものを必死に我慢した。

「天も連れてきたよ」

そう言って土生が山﨑の背中を押すと、山﨑は目に涙を溜めて、理佐の元に歩み寄る。

「理佐さん。俺、ずーっと待ってたんですよ?」

「ごめん…。天には1番心配かけたよな…。」

「もお!理佐さんのバカ!!理佐さん戻って来てくれなかったら俺…。」

顔をぐしゃぐしゃにして、溢れ出す涙を止めることなく泣く山﨑を、理佐は優しく抱きしめた。

「信じて待ち続けてくれてありがと。」

「良かったぁ…ほんとに良かったぁ…。」

「うん。」

理佐は、肩に顔を埋めて泣きじゃくる山﨑の頭を撫でた。

いつもしっかりしてるけど、ほんとはまだ幼くて子どもなんだよな、と愛しさが込み上げる。

同時に、自分が燻っていた長い間ずっと、山﨑が事故の責任を感じていたのかと思うと自責の念に苛まれる。

理佐は山﨑の体をそっと離し、目を見つめた。

「覚悟を持ってちゃんと戻ってきた。絶対にまた、頂点を取り戻す。」

山﨑にも自分自身にも言い聞かせるように宣言する。

すると山﨑は涙目で

「頂点は渡しませんよ?俺がすぐに追いつきますからね。」

なんて悪い顔して笑った。

「……なんだよ生意気なっ!」

強くなった頼もしい後輩の姿に感極まった理佐は、誤魔化すように山﨑をど突いた。

でも同時に、脅威でもあるのだと思い出す。

山﨑は、理佐が2年前に打ち立てた中学記録を超えようとしているのだから。

そして一方で理佐自身はまだ、跳ぶことすらままならないのだから…。
もう意地は張ってられない。

改めて理佐は、山﨑と土生に向き直る。

「あー、えっと、カッコつけといてアレなんだけどさ。」

つい下を向いてしまうのは、まだ素直になりきれていないからか。
それでも恐る恐る、虚勢でコーティングされたプライドを剥がすように、言葉を紡ぐ。

「実は俺、まだ跳べないんだ。跳ぶことに対して恐怖心が拭えなくて…。ずっと…その恐怖から逃げてきた。…向き合おうともせず、周りに迷惑かけて…。でも、また跳びたいってやっと思えるようになったんだ。だからさ、その…協力…してくれないかな?」

「……。」

言い終えた後の沈黙が妙に長い気がして、理佐に不安が募る。

「…えっと…?」

ゆっくり顔をあげると、土生と目が合う。

「…理佐がそうやって言ってくれるの、俺マジで嬉しいよ!!!」

土生は何故か半泣き状態だった。

「何でお前が泣くんだよ!」

「だって、理佐絶対弱音とか吐かないしさ、人に弱いところも見せないしさ、1人で全部抱え込んで心配だったからさ…!」

ああ、そっか。
俺って、ずっとそうだった。
ずっと1人で、勝手に苦しんでた。

抱え込んだものを何にも変えられず、一丁前に意地だけは張り続けてた。
弱さを認めず、強さだけが正しいと思ってた。

結局気付かせくれたのは、周りの人達だ。

「…俺ってバカだなぁ。気付くの遅いってな。」

「マジでさ、理佐は1人じゃないんだからな。」

「うん、ありがとう。」

「ゆいぽんにもお礼言っとけよ?」

「小林…?」

「ゆいぽんが教えてくれたんだよ。理佐、きっと1人でここに来るんじゃないかって。だから、行ってあげてって。ゆいぽんと何かあったの?」

土生に問われ、思い出す。
小林のあの瞳とあの言葉が、理佐の中の何かを変えたんだって。
また踏み出すきっかけをくれたんだって。

でもそれは、自分の中に大切に仕舞っておこうと思った。

「何も無いよ。ただ、部活中の小林とばったり会っただけ。」

「……そっか。」

土生はそう言って、理佐から目を逸らす。

一瞬土生の目が少しだけ揺れた気がするのは、理佐の見間違いだったのだろうか。

すぐに土生はいつも通りの笑顔で、山﨑の元へと肩を組みに行った。


理佐もそこに合流しようと踏み出した時、スマホの通知音が耳に届く。

スマホを開くと、小林からのメッセージが届いていた。

『大丈夫、きっと前に進める。』

ほんの1文。
絵文字も何もない簡素な文だった。

でも、理佐の中にあった得体の知れない不安が、スッと浄化されていくのを感じた。

「何だよ。全部お見通しってか。」

なんて呟いて、キャラクターが親指を立てたスタンプを送る。


理佐はまた、バーの前に立った。

土生や山﨑のアドバイスを貰いながら、何度も走った。


理佐がバーを飛び越えたのは、翌日のことだった。

綺麗な曲線を描き、フワッと宙に浮いた理佐の体はマットに沈む。

理佐のベスト記録からしたら、バーの高さは随分と低い。

それでも、約半年ぶりに飛び越えた高揚感は、何にも変え難いものだった。

マットに寝転んだまま見る空は、真っ青に晴れ渡って眩しかった。