翌日

過ちの取り戻し方が分からなくて。

前にどうやって進めばいいかも分からなくて。

理佐はずっと、屋上で空を眺めていた。

やがて何度目かのチャイムが鳴り、いつものように土生と小林、小池が屋上へと上がってきた。

昨日のことがあって、とにかく気まずかった。
どんな態度で接すればいいのかも分からず、理佐は寝転んだまま3人に背を向けるように体勢を変えた。

「てかさ、この間来たお客さんがめちゃ面白くてさ__ 」

いつものように内容の無い話をしながら弁当を食べ始める3人。

「ねぇ理佐、起きてんなら一緒に食べようよ。」

ふいに土生に名前を呼ばれて、心臓が跳ねる。

でも理佐は、狸寝入りを続けた。

素直になれなかった。


そして時間はあっという間に過ぎていく。

予鈴が昼休みの終わりを告げ、土生達が立ち上がる音が聞こえた。

小池と小林の話し声が遠ざかっていく。

また1人になった、そう思った時

上から声が降り注いだ。

「ほんとは起きてんだろ。」

それはすぐに土生だと分かった。
でも理佐は、反応せずに背を向け続ける。

そんな理佐におかまいなく、土生は話し続けた。

「俺お前の気持ち分かってやれないけどさ…何があっても味方だってことは忘れんな。」

そう言って土生は理佐の背中を軽くパンチした。

衝動が伝わり、体はわずかに揺れる。


胸は熱くなり、唇をギュッとつぐむ。

目からはぽろっと雫が落ちた。

「……ごめん…。」

理佐は蚊の鳴くような声で呟いた。

______


その日の放課後、理佐は職員室に呼び出された。


「おお、理佐。お前足の調子どうだ?」

担任であり、陸上部の顧問である土田がフランクに問う。

「…足は、まだ少し痛みます。」

ちょっとだけ嘘をつく。
ほんとはもう治ってるのに。

「…そうか。痛いのか。進路は?どうする?」

遠回しに、進路希望調査を提出してないことを責める土田。

はっきりと言えばいいのに、なんて思いながら、理佐は適当に答える。

「すみません。まだ分からないです。将来の夢とか無いし。」

「お前、1年の頃は西南大の推薦狙うって言ってただろ?そこはもう良いのか?」

「…跳べないのに、西南大行ってもしょうがないじゃないですか。」

「うーん…。跳べない…か。」

土田は困ったように手を顎に当て、背もたれに体を預けた。

「すみません、もう良いですか?この後用事があるので。」

また嘘をついて、その場から離れる口実をつくる。
ほんとは用事なんて無いのだけど。

「…用事か。部活も来てないし、バイトでもしてるのか?」

土田が問い詰める。
しかし理佐は

「してないですよ。進路希望はすぐに出しますし、授業もちゃんと出席しますから。失礼します。」

と適当に返し、土田に背を向けた。

そんな理佐に、土田はまた問いかける。

「…理佐、お前ほんとは足治ってんだろ?」

その言葉に、理佐の歩みは止まる。
核心をつかれ、心臓の鼓動が早まるのを言葉でごまかした。

「まさか。治ってたら部活にも顔出しますって。」

涼しい顔でそう言って、また土田に背を向ける。

しかし土田はお構いなしに話を続けた。

「山﨑が最近うちの練習に来てるんだ。すごい成長しててなぁ、今度の全中でお前が出した中学記録も塗り替えそうだぞ。」

「そうですか。」

理佐は背を向けたまま答えた。

「あいつ、理佐のこと気にしてたぞ。自分のせいで理佐は今も跳べないんじゃないかって。でもクヨクヨしてたってしょうがないから、いつか戻ってきた時に強くなった自分を見てもらうために頑張るんだって。」

山﨑の想いを聞いた理佐は、その場に立ち尽くした。
言いようのない感情が溢れてくるのを止めるように、口をぎゅっと結ぶ。


「俺にどうしろって言いたいんですか。」

土田の方を向き、問う。
すると土田は立ち上がり、理佐の方へ近づきながら言った。

「理佐…お前跳ぶのが怖いのか?」

再び核心をつく土田。
理佐は動揺を悟られないように平静を装おうとした。

しかし、土田は次から次へと言葉を投げる。

「俺は理佐がどんな選択をしても尊重するが…お前の中にある本心にはちゃんと正直になれよ。それと向き合うのは苦しいだろうが…。でも…向き合って乗り越えた先には、きっと素晴らしい景色が待ってるはずだ。」

土田がいつになく熱く語るその言葉が、理佐の荒んだ心に突き刺さる。
下を向き、拳を握りしめる理佐。

「あと、仲間は大切にしろよ。」

土田はそう言って理佐の肩を軽く叩き、職員室から出ていった。

土田に言われた言葉が、脳内で繰り返される。

"本心と向き合え"

その言葉の意味を噛み締めるように、自分の中に潜む本心を探る。

"誰よりも高く跳びたい"

その夢は今も、心の片隅に確かに存在している。

それは分かってる。

頭では。

でも、心が追いついて来なかった。

結果が出せずに落胆されるんじゃないか。
思うように跳べないかもしれない。

そんな不安が脳内を占拠し、理佐を足止めする。

逃げてることくらい分かってる。

でも、それと正面から向き合えるほど、強くはなかった。


職員室を出て、廊下をトボトボと歩く理佐。

また涙が目に溜まり、その涙がこぼれないように上を向く。



…ふいに、どこからか聴こえる楽器の音が、理佐の耳を違和感なく通り抜けた。

理佐の意識は自然とその音の方へと向き変わる。

いや、ずっと色んな楽器の音は鳴ってたのだけど。

何故だろう、その音だけが耳にはっきりと馴染み、理佐の足を動かして、音のする方へと向かわせた。

音の正体は音楽室から聞こえていたようだ。

窓から中を覗くと、小林が1人でサックスを吹いていた。
ああ、今の音は小林のサックスの音だったのか。

音楽なんてほとんど何も知らないのに、その音は妙な安心感をもたらした。

でもその心地の良い音は、中途半端な所で途切れた。

そして聞こえる怒声。

「ダメだ、小林、第4小節、音がしっかり出ていない。何度言わせたら分かる!」

中をさらに覗き込むと、吹奏楽部の顧問が小林の演奏をダメ出ししていた。
小林は悔しそうに唇を噛み締め、立ち上がった。

「すみません。もう一度お願いします。」

深々と頭を下げ懇願するが、顧問はため息をこぼす。

「小林、1回外れろ。そこ出来る様になったら戻ってこい。」

「…はい。」

今にも泣きそうな表情で、出口へと向かう小林。

理佐はその場に立ち尽くし、動けなかった。

そして、音楽室から出てきた小林と目が合う。

「理佐…?どうしたの?」

驚いた表情の小林の目は少しだけ赤みがかっていた。
でも口調はいつも通りで、昨日の出来事だって気にしてないかのようだ。

「いや…、偶然通りかかっただけ。練習、大変そうだな。」

「ああ…いつもこんな感じだから。最近は特に調子悪くてさ、怒られてばっかりなんだよね。」

小林はそう言って、引きつった笑顔を見せた。

理佐はかける言葉が見つからず、立ち尽くす。

すると気まずい空気を取っ払うかのように、小林がまた口を開いた。

「言っとくけど、私そんなに落ち込んでないからね?そんな気まずそうな顔しないでくれる?」

「落ち込んでないの?」

「落ち込んでる暇なんて無いから。自分に負けたくないし。」

小林は無理に笑顔を作っているようにも見えたけど、目は死んで無かった。

遠い未来を見据え、強い決心を宿したような瞳だった。
その瞳が、理佐の中の何かを動かし始める。

「…小林は強いんだな…。」

「…強くなんてないよ。ただ、強くありたくて頑張ってるだけ。弱い人は弱いなりに、弱い自分を受け入れて、向き合うしかないからさ。」

「…向き合うの、怖くないの?」

理佐は思わず訊ねる。

小林は少し考えた後、答えた。

「怖くて苦しくてどうしようもない時もあるけど…好きだから。音楽が。」

小林はそう言って無邪気に笑った。

ああ。

この瞬間、理佐の中で千切れていた糸が繋がって、真っ暗だった道に、微かな光が差し込んだ気がした。


俺は何やってたんだよ、と自分を責め立てる。

俺は確かに、ハイジャンが好きだった。

その気持ちだけでいいじゃないか。

弱くたっていい。
弱い自分も、自分なんだから。


「小林、俺ちょっと吹っ切れたかも。ありがとう。」

「ん?何が?私何もしてないけど…。」

「とにかく、ありがとう。」

「よく分かんないけど、吹っ切れたなら良かった。」

「…あと、昨日はごめん。」

「ああ、全然気にしてないから大丈夫。じゃあ、私練習あるから。また明日。」

小林はあっけらかんと言って歩き出した。

あまりにもあっさりしてて、気にしていたのは自分だけだったのかと拍子抜けしてしまう。

「あ、待って。」

理佐は歩き出した小林を思わず引き止めた。

「ん?」

と首を傾ける小林に、

「頑張れよ。」

と声をかける。

「理佐もね。」

ニコッと笑った小林に、理佐の時間は止まった。
胸の奥がむず痒くて、その笑顔は脳裏に焼き付いて離れない。

ハッと気づいた時には小林はもういなくて、理佐は廊下で1人立ち尽くしていた。

思い出したかのように様々な楽器の音色が耳に届く。

理佐は大きく息を吸い込み、歩き出した。


また跳びたい。

そんな感情が、また心の奥底から湧き上がってきていた。