ぬくもりを帯びた風が頬を撫で、どこかで咲く花の甘い香りが鼻を刺激する。


練習を終えた森田ひかるは、暖かな春の陽射しに目を細めながら大きく背伸びをした。


「ひかるさん、今日って菅井さん達も来るんですよね?理佐さんにも、久しぶりに会えるかなぁ。」


後輩の山﨑天が、期待に満ちた眼差しで訊ねる。


「え!あの菅井さんですか?私、菅井さん達が走った箱根駅伝を見て、この大学に入学したいと思ったんです!え、菅井さんに私も会えますか?え、握手してもらえるんですか?」


この春に欅大に入学した増本綺良が、興奮気味に捲し立てる。


隣にいた田村保乃はそんな増本を見て、笑いながら答える。


「皆で一緒に行くんやで。今日は卒業生も含めてお花見BBQやって言ってなかったっけ?」


「増本が聞いてなかっただけです。」


同じく新入生の大園玲が、柔かな笑顔で答えた。



「おーい!皆もう揃ってるから、早く来なよー!」


遠くから、自転車に乗ったマネージャーの尾関梨香が叫んでいた。


「じゃあ、そろそろ行こうか。先輩達が待ってる。」


森田が号令をかける。



あの日から月日が経ち、森田と田村は4年生になった。


そして今日、久しぶりにあの時のメンバーが集まる。

森田と田村は、後輩たちを引き連れてお花見会場に向かった。





会場に着くと、懐かしい顔ぶれが揃っていた。


「わぁー!るんちゃーん!保乃ー!久しぶり!」


森田達に気付いた土生が、満面の笑みで大きく手を振る。

そこに飛び込むように抱きつく田村。


「土生さ〜ん!会いたかったです!」


「よしよし。森田先輩と田村先輩、しっかりやってますか?」


田村の頭を撫でながら、土生は聞く。


「もう、全然ダメです…。先輩達みたいに出来なくて…。」


「あはは!私たち何もやってなかったけどね。ね、みいちゃん。」


土生が自虐しながら盛大に笑うと、「うん、私らホンマに何もしてへん。」と隣の小池も笑って頷いた。


「ほんと、皆しっかりしてたからねぇ。…うわ、てかみいちゃん焼肉のタレ服についてるよ!」


土生が指摘すると、


「うわ〜、最悪やん!誰かティッシュ取って〜!」


と小池が甘える。


周りにいた人たちがティッシュを探してると、どこからか呆れたような声で


「こぼしてんじゃねぇよ。」


と、理佐がティッシュを投げ渡した。


「わー、理佐ありがと!」


「んー。はい。」


とだけ返事して、理佐は再び肉を焼き始めた。


「さすが日本のエース!!気が利くなぁ!」


すでに酔っ払っている齋藤がヤジを飛ばすと、理佐はめんどくさそうにため息をつく。


「まだ実業団入ったばかりでエースじゃないですから。ふーちゃん、飲み過ぎです。水飲んで!」


「んんん!理佐好き!」


齋藤が理佐を抱きしめる。


「もー!酔っ払い!!離れて!!肉あげないですよ?」


「あー!それは困る!ごめんなさい!」


すぐさま離れて詫びる齋藤に、理佐は「よろしい」と言って齋藤の皿に肉を乗せた。


「理佐、なんだかんだ優しいよね。」


近くにいた尾関が理佐を褒める。


すると、理佐は照れ隠しをするように尾関の二の腕をつねり始めた。


「あー!ごめんって!いててて!」


尾関が悶える様子に、理佐は満足げに笑みを浮かべた。



森田は、相変わらず騒がしいやりとりをほのぼのと眺めていた。


そんな森田の耳に、あの人の声が届く。


「皆揃ったかなぁ?」


その懐かしい声に、森田は胸を踊らせながら振り返る。

森田の目の前には、少し変わった姿をした菅井がいた。


「菅井さん!?」


「るんちゃーん!久しぶり!」


「え、何か気合い入りすぎじゃないですか?」


菅井の様相に、森田は思わず吹き出した。


サングラスをかけ、首にタオルを巻き付けて、さらには軍手を着け、手にトングを持っている。


「今日はBBQ奉行になろうと思って気合い入れてきちゃった。」


菅井はそう言って恥ずかしそうに微笑む。


しかしその後ろでは、小林が手際良く肉をひっくり返しながら文句を垂れていた。


「ちょっと友香さん、肉焦げてますから!」


「え、嘘!?あ、てか由依はやっちゃダメって行ったでしょ!ライブ近いんだから手大事にしないと!!」


「大丈夫ですって、これくらい。」


「ダメだって!火傷したらどうするの!」


「過保護すぎますって。」


菅井と小林が言い合いを始める。


すると守屋が菅井からトングを奪い、黙って肉を皆に配り始めた。


「あ、茜ありがとう…。」


「2人が言い合いしてる間にお肉が1番美味しいタイミングを逃してるから!もう2人はいいから座ってて!」


守屋が少し強めに言うと、菅井と小林はシュンとして、「すみません…。」と椅子に座った。


1番のBBQ奉行は、守屋だったらしい。


そんな皆のやりとりを見て、森田は懐かしくて笑みが溢れる。

隣に座っていた梨加も、口に手を当ててクスクスと笑っていた。


「友香ちゃん、やっぱり面白い…。」


「あ、梨加さん、久しぶりです。」


「ふふふ。ひかるちゃん、久しぶりだね。」


相変わらず纏っている空気が柔らかい梨加も、今やOLだ。

就活50連敗したなんて噂があったけど、無事に仕事を見つけたらしい。



「ところでるんちゃん、どうなの?新しいチームは」


肉を焼かせてもらえない菅井は、肉を頬張りながら森田に訊ねる。


「凄く良いチームになりそうです。新入生もたくさん入ってくれましたし。きっと強くなりますよ。」


森田が誇らしげに語ると、菅井は


「ほう…。」


と意味ありげ微笑み、頷いた。


「まぁ同時に癖も強いんですけど…。」


そう言って森田は、隅っこで固まる新入生を見る。

増本が菅井との握手チャンスを今か今かと狙っていたが、菅井は気付くことなく話を続ける。


「そっか。今年も冬が楽しみだね。保乃と2人で、良いチームを作ってね。」


「はい。菅井さんも、新しい実業団チームのコーチになったんですよね。」


「そうなの。毎日凄く充実してるよ。」


そう言って見せた菅井の笑顔は、心の底から溢れ出たように見えた。


そして、ふいに菅井はまっすぐ聳え立つ櫻の木を見上げた。


「ねぇるんちゃん、覚えてる?初めて会った日のこと。」


菅井が問う。


「忘れる訳がないですよ。」


「あの時、質問に答えてくれなかったよね。走るの好きかってやつ。」


「ああ。そういえば、私答えてないままでしたっけ。」


森田は記憶をたぐり寄せる。


確かに出会った時は、走ることが好きとか嫌いとかよく分からなくて。

ただ、何かに迫られるように走っていただけだった。


でも皆と走っていくうちに、徐々に取り戻せたんだ。


そして箱根駅伝を走った時に確信した。


「走るの好きですよ。大好きです。」


森田は確信を持って答えた。

嘘偽りのない、真っ直ぐな瞳で。


「菅井さんに出会えて、色んなことを教えてもらいました。そして、色んな感情を知りました。」


「それは私も同じだよ。」


菅井が懐かしむように答えると、森田は少し間を空けて、言う。


「…でも、唯一分からないことがあります。」


「何?」


「走るとはなんなのか。」


森田が言うと、菅井は顎に手を添え、考え始めた。


暫しの無言の時間を経て、菅井が口を開いた。


「私も分かんない。」


素っ頓狂な顔をした菅井に、森田は思わずずっこけた。


「そう…ですよね。」


「うん。分かんないから、走り続けるんでしょ?その答えを探して。」


菅井が言った言葉に、森田は「そうですね。」と頷いた。



森田は辺りを見渡す。


ひたすら肉を焼く理佐に、ウザ絡みをする齋藤。そこに挟み討ちにされる尾関。

その隣で談笑する土生と小池。

テキパキと慣れた手つきで皆に肉を配って回る守屋に、肉を自分で焼きながら1人黙々と食べる小林。

椅子に座って守屋から配給される肉を待っている梨加。

久しぶりに会えた先輩達と楽しく談笑する田村。

そして、目の前で優しく微笑む菅井。



懐かしい光景が、そこに広がっていた。

あの夢のような1年が、また戻ってきたみたいだった。


時にぶつかって、泣き喚いて、時に転げるほど笑って、飛び跳ねるほど喜んで…。


今は皆、それぞれ違う道に歩み出してるけど。

あの頃確かに、同じ場所を目指して共に走っていた時間があった。


そんなかけがえのない時間を、それぞれが胸の中の宝箱に、大切にしまってある。


時々、戻れない時間を振り返って懐かしんでしまうこともあるけど、それでも前を向いて今を必死に生きている。

何かを求めて、もがきながら。



走るとは。強さとは。生きるとは。


そんな、考えても考えても答えの出ない問いは、きっと誰しも心の中に存在していて。


その答えを探して、そしてその先に答えがあると信じて私たちは生き続け、走り続けるんだと思う。

どんなに強い風に吹かれても、目の前に真っ直ぐ道が続いている限りは。


時には立ち止まってしまうこともあるかもしれないけど。


でも、あのかけがえのない時間が、私たちが前へと進む活力をくれるはずだから。


だから、私たちはきっとこれからも大丈夫だ。



「友香さーん!るんちゃーん!早くしないと高級なお肉、無くなっちゃいますよー!」


遠くから、理佐が手を振って呼びかけていた。

理佐が取り仕切る網の周りでは、一足先に高級肉を平らげた他の皆が、悪い顔をして森田と菅井に手招きしていた。


「うわ、食べられちゃいますよ!菅井さん、行きましょ!」


森田はそう言って、菅井の手を引いて足を踏み出した。

呼びかける仲間たちの元へ。


側では、満開の櫻が雲ひとつない青空を背景にして、咲き誇っていた。

静かに、儚く。それでいて力強く。



Fin.