首位争いは熾烈を極めた。


トップを走る鳥居坂大長濱ねるを、乃木大のエース白石麻衣が追う。


鶴見中継所では45秒の差があった両校だが、白石の力走により18キロ地点手前で2人は並んだ。


しかし、長濱は慌てなかった。

それどころか、長濱は待ってましたと言わんばかりに、追いつかれてからペースを一気に上げた。


もしかして、わざと追い付かせた…?


白石は動揺した。

鳥居坂大を追い越すためにハイペースでここまで来ていた白石と、後半に向けて余力を残した長濱。

しまった、と思った。


もちろん白石は、それに負けるような選手では無かった。

ペースを上げた長濱に食らいついていく。


しかし長濱もまた、白石に負けず劣らずの実力者だ。そして、策士でもあった。


そのまま2人は並走を続ける。



「さぁ今年の箱根駅伝を制するのは鳥居坂大か、乃木大か。最後まで予想の出来ない展開となっています!」


この駆け引きに勝つのはどちらなのか。

先に前へ飛び出して、優勝を手にするのはどちらなのか。


日本中が注目した。



そして、ラスト1キロでレースは動いた。


長濱は並走する白石を横目でチラッと見る。


やっぱり白石さんは強い。

でも、今日先にゴールするのは鳥居坂大だ。

優勝するのは私たちだ。


長濱は白石の一歩先に出る。


白石の荒い息遣いが遠ざかっていくのを確かめると、長濱はペースをさらに上げた。


「長濱がスパートをかけました!白石はついていけません!長濱が優勝へ王手をかけました!」


長濱は後ろを振り返ることなく、颯爽と白石との距離を離していく。


白石も、最後の力を振り絞りスパートをかける。しかし、離れていく長濱の背中を見送ることしか出来なかった。




大手町周辺が騒がしくなった。


1位のチームが大手町に帰ってきたのだ。


「最初に帰ってきたのは鳥居坂大、長濱ねるです!長濱が1番初めに大手町へと帰ってきました!鳥居坂大、3年ぶりの総合優勝です!!」


実況は興奮を抑えきれずに、叫ぶ。


長濱は両手を広げてゴールテープを切ると、仲間の元へと一目散に駆けていった。


平手も嬉しそうに長濱を称える。



森田は遠くから、その光景を眺めていた。


ふいに、平手と目が合う。

目が合った数秒で、互いの健闘を称える挨拶は無言のうちにすんだ。



ほんの10秒もしないうちに、白石がゴールした。


乃木大の選手たちは皆、悔しそうな表情を浮かべて白石を迎え入れる。


日本が誇る2大エースを擁した乃木大ですら、3年連続総合優勝という夢は叶わなかった。



「箱根の頂点はめっちゃ高いねんな。」


田村が呟く。


「でもいつか、辿り着きたいな…。」


森田はゴール手前に真っ直ぐ続くコースを一点に見つめ、言った。


「せやな。たとえ笑われたって、うちらで頂点もぎ取りたいな。」


田村の言葉は自信に溢れていた。

森田ももう、無理だと一蹴しようとは思わなかった。


「うん…。絶対に。」


森田は決意を込めて呟く。

言葉にすれば、実現出来そうな気がした。


10人で箱根を目指す。

多くの人が無理だと笑った夢物語を、現実のものにしたのだから。




3番目に大手町に帰ってきたのは、日向商業大だった。

それからしばらく時間が空き、4位と5位の大学が続け様にゴールした。


テレビでは、鳥居坂大の優勝インタビューが始まっていた。

そのために、欅大が何位にいるのか、テレビからの情報は途絶えていた。



「そろそろゴールラインの近くに行こうか。」


守屋の合図で移動を始める。


欅大のメンバーがゴールライン付近に近づくと、アナウンサーの絶叫が耳に届いた。


「また選手の姿が見えて来ました!」


誰だ。どこの大学だ。

緊張の面持ちで構える欅大の一行の目に、待ち侘びた人物が映る。


ガード下から現れたのは、菅井だった。


「菅井さん!!」


森田は叫んだ。


「友香!ラスト!走れー!」


守屋も涙を堪えて叫ぶ。


「次に大手町に帰ってきたのは、なんと欅大です!初出場の欅学園大学が!たった10人で箱根へと挑戦した欅大が!なんと6番目に姿を見せました!」


実況のアナウンサーも、興奮のあまり声を枯らす。


「まさに、10人全員の力でここまで走り抜きました。このチームの果敢な挑戦は、今後語り継がれることになるのでしょう。」


解説員も、感心したように話す。


沿道やビルの窓からは、自然と拍手が沸き起こった。欅大の健闘に、心からの祝福が贈られたのだ。


理佐は肩を震わせて俯き、土生は前を向いたまま大粒の涙を流した。

守屋は静かに目を閉じて、涙を堪えた。


降り注ぐ声援のなか、森田は近づいてくる菅井をじっと見ていた。


脚の痛みをこらえているのが分かる。

それでも、菅井はスピードを落とすどころか上げようとすらしていた。


もういいです。それ以上無理をしないでください。

そう言いたい気持ちを、森田は飲み込んだ。


菅井の内側から溢れ出すパワーは、途切れてなんかない。

菅井は1ミリも諦めてなかった。

最後の加速をかけるために、菅井の体がきらめくような力を放つ。


その瞬間だった。


菅井の体の中で起きた異変を、森田は見逃さなかった。

菅井は左側によろけ、一瞬走るスピードを緩めた。


しかしすぐに体勢を立て直し、走り始める。


フォームはもう、左脚の状態を隠せていない程に崩れていた。それでも菅井は、走ることをやめようとはしない。

前だけを見て、進み続けていた。


もうやめてください。本当に走れなくなってしまう。あなたは、走り続けなきゃいけない人だ。


森田は焦燥と混乱に紛れ、ゴールから飛び出して菅井を止めに入ろうとした。

今朝聞いた菅井の言葉も、覚悟もすべて頭から抜け落ち、体が勝手に動いていた。


しかし、それは守屋によって阻止された。

守屋は森田の腕を掴み、


「るんちゃん、止めちゃダメだ。友香の覚悟を踏みにじっちゃいけない。」


と何かを押し殺したように静かに訴える。

やり切れないような感情のなかに、強い決意も混じったような表情をしていた。


森田は感情を押し殺し、菅井の方に視線を戻す。


目が合った。


汗に濡れた菅井の顔が、ゆっくりと微笑を象った。すべてをなげうって、すべてを手に入れたものの顔だった。


これは競技だ。

わずか1秒を争って、少しでもはやくゴールをする。他の誰でも無い、自分自身に勝利し、誰も掴むことの出来ない何かを掴むのだ。


菅井の表情が、走らせてくれ、と語る。


止めることは出来ない。

森田は拳を握りしめて、目を逸らすことなく菅井の走る姿を見続けた。



「友香さん…!!ラストです!!」


理佐はボロボロと涙を流しながら叫ぶ。


「あと100メートルですよ!!」


土生は頬に一筋の涙を流しながら、笑顔で菅井を迎えようとしていた。


「菅井さん!!!」


「ゆっかー!がんばれ!」


「いけーーー!」


「ファイトーー!」


田村も尾関も小池も齋藤も、涙で顔をぐしゃぐしゃにして、声を枯らす。


「友香ちゃん!がんばれー!!」


「負けるなぁぁ!!」


梨加も小林も、感情を露わにして菅井を鼓舞する。


「友香…。ほんと、凄いよ。」


守屋は菅井をじっと見つめ、ずっと堪えていた涙を流した。

菅井との色んな思い出が、一瞬のうちに脳内を占有する。


いつだって全力で、真摯に走ることと向き合い続けた。


そんな菅井の勇姿を、絶対に見逃したくは無かった。


「友香ぁぁ!!走り抜けぇぇ!!」


守屋は腹の底から、全ての想いを乗せて叫んだ。


ずっと黙って菅井を見つめていた森田も、叫ばずにはいられなかった。


「菅井さん!!ラストいけぇぇ!!」


言葉に魂を込めて、全力で届けた。



その声援に応えるかのように、菅井は胸元のタスキを握りしめ、懸命に前に進み続けていた。


最後まで美しい菅井の走りに、そこにいた全員が目を奪われる。

その一瞬の情景がとてつもなく美しかった。


永遠なんて無いと分かっていても、ついそれを求めてしまうくらいに。


誰もが菅井から目を逸らさずに見つめ、声を出し続けた。




そして、待ち侘びた瞬間が訪れる。


1月3日、午後1時44分32秒。


菅井は大手町のゴールラインを越えた。

白石、長濱に次ぐ区間3位の力走で、10区を走り終えたのだ。


激しく呼吸をし、そのまま膝が崩れそうになった菅井を、森田と守屋があわてて支えた。


菅井の左脚は痙攣していた。

しかし、すべてを出し切った菅井は満足げに微笑み、皆の元へ歩みを進める。



欅大の全員が、次々に菅井に抱きついた。言葉に出来ない感情を、皆が思い思いに爆発させる。


菅井は輪の中心でもみくちゃにされながら、肩にかかったエメラルドグリーンのタスキを握りしめた。

何かを噛み締めるように、目を瞑って、力強く。

そしてゆっくりと、肩から外す。


217.1キロの長い長い道のりを越えて、欅学園大学のタスキは、再び大手町に戻ってきた。


菅井は高らかに右腕を掲げた。

その手には、エメラルドグリーンのタスキが握りしめられていた。



「菅井さん、私たち、ついにやり遂げたんですね!」


森田は喜びを爆発させるように、菅井に投げかける。


「うん。私たち、箱根駅伝を走り抜いたんだ。」


菅井は涙を流しながら、満面の笑みを浮かべていた。

森田は菅井と、一瞬だけ固く抱擁しあう。


「夢みたいです。」


「すっごく疲れたけど、最高に気持ちの良い夢だったね。」


菅井がそう言うと、森田は頷いた。


「最っ高に楽しかったです。」


こんなにも儚くて刹那的で、幸せな夢があるなんて。


『この10人で頂点を目指したい』


夢物語だと思っていたことが、現実のものになるなんて。


1年前は想像もしてなかった。



「言ったでしょ?やってみなきゃ分からないって。」


菅井は悪戯っぽく森田を見た。


「挑戦して良かったです。」


森田が言うと、菅井は嬉しそうに笑った。

心の底から嬉しそうに。


そして、全員の顔を眺めわたして言った。


「皆、頂点は見えた?」