菅井はウォーミングアップを終え、携帯テレビの画面に見入っていた。

テレビの中継映像が、力走を続ける森田から、9区を走り終えようとする平手に切り替わる。


「10年間更新されなかった9区の区間新記録が、今まさに更新されようとしています!

3年ぶりの総合優勝へ、その想いのこもったタスキは今、アンカーの長濱へ託されました!!そして、平手は区間新記録を更新です!」


鶴見中継所は、平手の記録更新に湧き返った。

菅井はすぐに矢崎に電話をし、平手のタイムを森田に伝えるように言う。


そして菅井が顔を上げると、中継所の敷地内に入ってきた平手と目が合った。

記者や鳥居坂大の下級生に囲まれた平手は、その輪から抜け出して菅井の元へ近づいてくる。


「区間新記録、おめでとう。」


菅井が言うと、平手はフッと小さく笑う。


「思っても無いくせに。ほんとは森田さんが覆すと思ってるんでしょ。」


「どうかな。」


菅井は思わせぶりな表情で答える。



中継ライン付近が再び騒がしくなった。

2位の乃木大堀が、アンカーの白石へタスキリレーをしたようだ。鳥居坂大との差は約45秒。

さらに約1分後に日向大が続く。


「優勝はアンカー次第ってとこかな。」


菅井が言うと、平手は静かに反発した。


「ねるなら、白石さんから逃げ切れるはずだ。白石さんは凄いランナーだけど、ねるだって負けてない。」


「信頼してるんだ?」


そう菅井が聞くと平手は力強く頷き、「でも私は…。」と何かを言いかけて言葉を飲み込んだ。


近くにいた人のラジオから、実況の声が聞こえてくる。


「欅大の森田は20キロを過ぎましたが、勢いは落ちるどころか増しています!この選手にはスタミナという概念は無いのでしょうか?このまま行けば、9区の区間新記録は再び更新されることになりそうです!」


興奮気味に伝える実況を聞き、平手は呆れたように微笑んだ。


「ようやく到達出来たと思っていた場所に、いとも容易くたどり着く人が居る。私はまた、それを超えるために走り続けなければいけない。一体どこまで行けばいいんだろうね…。」


菅井は平手の目に、絶望に似た光を見た。

きっとトップに君臨する者にしか分からない苦しみや葛藤があるのだろう。


それを踏まえた上で、あえて菅井は言った。


「てちのおかげで、うちの森田は本当に強くなった。きっとお互いの存在を糧に、これからさらなる高みに…、誰も行けなかった場所へ行くために、走り続けるんでしょ?」


「…そうだね、私はきっとこれからも走り続ける。自分の走りに満足できる日まで。いつか来るのかな、そういう日が…。」


平手は空を見上げて、切なげな表情で言った。


10年間更新されていなかった9区の区間新記録をまさに今叩き出した平手が、まさか虚無の感情を抱えてるなんて誰が想像出来るだろうか。

誰もが羨む記録を出しながら、まだ尚自分に満足しない平手は、上を目指してこれからも走り続ける。



「走る者の宿命なのかもね。そこに私がいられないことが悔しいよ。」


菅井はそう言って唇を噛み締めた。


菅井にとって、箱根はラストレースのつもりだ。


本音を言えば、自分も森田や平手達と共に走り続けて、同じ場所で戦いたかった。


でも、それは無理なことは自分が1番よくわかっている。

ずっと誤魔化し続けた膝の状態は、そんなに良くはない。


悔しいけど、それもまた私の運命なのだと今は受け入れている。



そんな菅井に平手は優しく微笑み、一言を添えて手を差し出した。


「健闘を祈る。楽しんできて。」


平手の手を、菅井は強く握る。


「ありがとう。」


菅井は手を離すと平手に背を向け、中継所の方へ向かう。


かつて同じチームで高めあった2人が今、別々の道を歩もうとしていた。




「ひかるちゃん、平手さんのタイムを聞いた途端にまたペース上げたらしい。」


梨加がテレビ画面を菅井に見せる。

菅井の予想を遥かに上回るスピードで、森田は前だけを見据えてラストの2キロを駆け抜けていた。


もうすぐだ。


菅井はそっと左膝に触れる。

痛み止めのせいか、触れた指の感触はあまり感じ取れなかった。痛みも無い。


大丈夫だ。走れる。


皆が待つ大手町へ向けて、私は今日、これまでの全てを注ぎ込む。


「欅学園大学の選手は中継ラインに。」


係員の呼び出しで、菅井はベンチコートを脱いで梨加に託す。

ベンチコートを受け取った梨加は、テーピングも何もしていない無防備な菅井の左脚を見て、心配になった。


「膝、固定したりしないの?」


「いいの。無駄なものは全て削ぎ落としたい。」


平然と答えた菅井の言葉には、故障を言い訳にしない覚悟が宿っていた。


だったら笑って送り出そう。

梨加は正面から菅井を見て言った。


「友香ちゃん、この一年楽しかった。」


「私も。」


菅井は微笑み、梨加の肩に手を置いた。


中継ラインに立つ。

菅井はまっすぐ、最後の100メートルを駆け抜ける森田を見据えた。


はじめて会ったあの日から、分かっていた。

私がずっと待っていたもの、ずっと欲しかったものは、あなただと。


るんちゃん、あなたはやっぱり凄いランナーだ。

いつだってあなたは、私が求め、あがき、ついに届かずに終わろうとしているものを、私が理想とする走りを実現する。


これほどまでに美しい走りを、ほかに知らない。


出会ってくれて、ありがとう。

あの日あなたと出会えたから、今がある。



私も、過去最高の走りをしてみせるから。


そして、10人の戦いと、私自身の約10年の陸上人生を、綺麗に締め括るよ。



________



9区の20キロ地点で、森田は平手の出した区間記録を知った。

矢崎の声を耳がとらえ、体は自動的に反応してスピードを上げる。


鼓動が体の中で激しく響く。

必死に空気を取り込み、全身に酸素を行き渡らせる。

まだだ。まだ行ける。



残り1キロ、森田は時計を確認する。

平手が出した記録をギリギリ塗り替えられるかどうか、瀬戸際だった。

なら、加速すればいい。

森田はもう1段階ギアをあげた。


苦しい。


今更になって、体が悲鳴をあげだす。

筋肉が、肺が、心臓が、今までに無いくらいの限界値へ達そうとしていた。

これ以上無理だって思ってしまうほどに。


でもきっと、この先へ進めたらもっと強くなれる気がする。

誰よりも、強く…。



鶴見中継所前の最後の直線に入る。

残り100メートル。

中継所に立つ菅井が見える。

菅井は少し切なげな表情で、静かに真っ直ぐにこっちを見つめていた。


タスキを肩から外す。

今は走ること、タスキを渡すこと以外の動作は邪魔だった。すべてのエネルギーをそこに注ぎ込む。最後の数歩は呼吸さえ止めて、タスキを前へ突き出した。


一瞬、お互いの眼差しが交錯する。


菅井さん、皆でようやくここまで来れたんです。

あとは、あなたらしく真っ直ぐに走り抜けてください。


森田の手から、タスキがすり抜けた。


タスキを受け取った菅井の背中が遠のいていく。

森田は天を仰いだ。

心臓が激しく暴れ狂い、肩を上下させる。


「ひかるちゃん!凄いよ、区間新記録更新したよ!!」


梨加が跳ねながら、森田の肩を叩く。


「欅大の森田が、平手の出した記録をさらに1秒更新しました!区間新記録です!」


テレビ中継のアナウンサーが言っているのが聞こえてきた。


森田は4人を抜き欅大は9位に浮上、森田自身は堂々の区間1位だった。


テレビクルーや新聞記者が森田の周りを囲う。しかし森田はボーッとしていて、質問に答えない。


そうか…。

区間新記録。


森田はまだ、実感出来ないでいた。

止め忘れて、律儀にラップを刻み続ける時計を見る。


時は刻一刻と進み続ける。

その間にも、菅井は大手町へと一歩一歩近づいていることを、森田は思い出した。


「…後は菅井さんに託します。ごめんなさい、今はそれしか無いです。」


森田は記者に二言だけ、そう伝えて梨加の方を向く。


「梨加さん、急がないと。ゴールに間に合わないです。」


森田はベンチコートを羽織ると荷物を持ち、「失礼します。」と周りに一礼をして、走り出した。


「え、ひかるちゃん!?ちょっと待ってよ!汗拭かなくていいの!?」


梨加は慌てて追いかける。

レースを終えたばかりだと言うのに、スタミナどうなってるんだ、と梨加は思ったがそれどころではない。

このままじゃ置いていかれる。



「行っちゃったよ…。どうするんだよ…。」


大手町へ向けて鶴見中継所を走り去っていった森田と梨加を見送りながら、テレビクルーや記者たちは立ち尽くしたのだった。




その頃菅井は、3キロ地点の六郷橋を渡っていた。


全長が400メートル以上ある巨大な橋の真ん中で、前方に動地堂大の選手の姿をとらえる。

動地堂大は鶴見中継所で、欅大よりも1分半ほど先にタスキリレーした。それなのに視認できる距離まで追いつけたということは…。


菅井は考える。

自分自身は、速すぎず遅すぎず、良いペースでここまで来ている。

多分、動地堂大の選手は調子が悪いんだな。


だが、ここでスパートをかけたりはしない。

逸ってはいけない。


序盤で脚にいらぬ負担を強いては、10区を走りきることすら出来なくなる。


今、菅井が戦うべき相手は、他大の選手ではない。

自分の脚の古傷だった。