横浜駅付近で、首位争いは大きな動きを見せた。
「3位で戸塚中継所を出発した鳥居坂大平手が、いよいよ首位を奪還しようとしています!乃木大の堀は逃げ切れるのでしょうか!?」
いつにもなく、実況にも熱が入る。
まさに、平手が堀を猛追している最中だった。
少し前に平手が追い抜いた日向大の佐々木との差は、どんどん開いていく。
それほどまでに、平手のスピードは圧倒的だった。
現在1位の乃木大、堀は後ろを振り向く。
負けたくない。追い抜かれるわけにもいかない。
でも、今の自分の状態と平手の状態を考えれば、追い抜かれるのも時間の問題だということも分かっていた。
せめてアンカーの白石に、少しでも逆転の余地を残した状態でタスキを繋ぐ。それが今の自分にできる最大の仕事だと、客観的に分析をした。
ここで無理にペースを上げて自滅するのだけは避けたい。
堀は悔しい気持ちを噛み締めた。
やがて平手が堀に追いつく。
その勢いのまま堀を交わし、突き放していく。
「鳥居坂大が、ついに首位奪還です!3年ぶりの総合優勝に王手をかけました!堀はついていけません…!」
首位を奪還した平手は、鶴見中継所で待つ長濱ねるの元へ、区間新ペースで走り抜けていった。
その頃森田もまた、平手の通過タイムよりやや速いペースで権太坂を下りきり、10キロ過ぎを快走していた。
ここで西洋大を颯爽と抜き去った。
並んで様子をみるなどと悠長なことはせずに、一気に突き放していく。
これで欅大は10位まで浮上し、シード権内に食い込んだことになる。
ひとつ、目標とした位置にたどり着いたことに束の間の喜びを感じる。
でも、まだ足りない。
まだ上へ行きたい。
もっと距離があれば、もっと走り続けることを許されれば、前を行くチームを全て抜いて、誰よりも速いタイムを叩き出せるのに。
…もっと走らせてくれ。
ずっと走り続けていたい。
ふいに森田から、ポロッと笑みが溢れた。
そして内側から沸き立つ得体の知れない感情に気づく。
感じたことがあるような、無いような…。
どこか懐かしいような、心地のいい感情。
何だこれは。
少し考えて頭で理解出来た時、森田の中のピースが綺麗にはまった。
…もしかして私は今、走ることを楽しんでるのかな。
いつからか忘れていたその感情を思い出した時、森田の頭の中を様々な記憶が駆け巡る。
森田は物心ついた時から走っていた。
走り始めたきっかけは覚えてないけど、純粋に走ることが好きだった。
楽しかった。
走ることで、知らない未知の世界を見れる気がして。
何の疑問も持たずに、中学でも陸上部に入部した。
そこからだろうか。何かが崩れ始めたのは…。
中高の部活で強制される意味の無い練習、上下関係、チームメイトとの確執、求められる結果、そしてのしかかるプレッシャー…。
トラックという狭い鳥籠の中から抜け出せない日々。
走ることが、"好き"から"義務"になっていく。
ならば辞めればいい?
違う。
辞められなかったんだ。
走ることを辞めてしまったら、私には何が残る?
走ること以外に何もしてこなかった私には、何も残らなかった。
だから、走るしかなかった。
嫉妬が渦巻く世界で、チームメイトから嫌がらせを受けようが、周りからの期待と孤独感に押しつぶされそうになろうが、走り続けることしか出来なかった。
いつしか走る楽しさなんて忘れて、孤独を埋めたくて走るようになった。
走っていれば、きっと誰かが認めてくれる。
結果を出せば、誰かが褒めてくれる。孤独を埋められる。
そう信じて走り続けた。
でも、森田は孤独のままだった。
指導者は自らの栄光や地位のために、選手を利用するだけ。
結果を出しても、才能があっていいね、と周りに揶揄されるだけ。
違う。才能なんて無い。
誰よりも練習してるから、結果を出している、それだけだ。
まだ幼かった森田は反発した。
周りは森田から離れていった。
せっかく出来た唯一心の許せる親友も、結局自らの過ちで断ち切ってしまった。
走ることが、森田から色々なものを奪っていく。
走らなければ、手に入るの?
普通に生きられるの…?
誰も救い出すことの出来ない暗闇の中で、森田はもがき続けた。
そんな時、一筋の光が差し込んだ。
『ねぇ、走るの好き?』
純粋な眼を向けて、そう問うた人がいた。
森田の走りを見て、感動したと言ってくれた人がいた。
悲惨な過去を知っても尚、見捨てずに寄り添ってくれる人達がいた。
走り続けることで誰かと繋がり、結びつくことが出来た。
ようやく、孤独から抜け出せたんだ。
息苦しさも、人間同士の足の引っ張り合いも、寂しさも無い。
楽しい。
楽しいよ。
ずっと待ってた。
これだ。
私が待ち望んでいた感情が今、体を駆け巡り力となって、より強い走りとなって体現されていく。
今なら自信を持ってこう答えられる。
「走るのが好きだ。」と。
走りはもう、森田を傷つけない。森田を排除したり、孤立させたりしない。
走りは森田の傍でそっと寄り添う。いつまでもともにあり、森田を支える力となって。
「……りた!森田…!」
森田は併走している給水係にしばらく気づかなかった。
視線を横にやると、必死に叫ぶ給水係が目に入る。
「平手が区間新記録を出しそうだ!」
給水を受け取りながら、その情報を耳にする。
やっぱりそうか。
平手さんは、一体どれ程のスピードでこの道を走り抜けたんだろう。
具体的な記録は聞くことが出来ないまま、給水係は離れていく。
私は平手さんに勝てるのだろうか。
…いや、勝つ。
誰よりも速く、遠くへ辿り着いてみせる。
森田は給水で受け取った水を一口、体へ取り込む。
冷たい水が体の中を滑り落ちた瞬間、何かが弾けた気がした。
そして感覚がまた一段と研ぎ澄まされていく。
音が一気に遠のき、脳髄が冴え渡った。
走る自分の姿を、もう1人の自分が俯瞰しているみたいだった。
このまま還ってこられなくなりそうなほど、気持ちがいい。怖いぐらいに、走りが洗練されていく。
待っててください、菅井さん。
最高の走りを以って、あなたと、あなたのおかげで出会えたかけがえのない仲間たちに感謝を伝えたい。
私は、走ることでしか伝えられないから。
この体を極限まで動かして、菅井さんにタスキを繋いで…
そして、きらめく何かをみんなで一緒に掴み取りましょう。