齋藤からのタスキを受け、田村は8区の道のりを走る。
3キロ地点の湘南大橋を駆け抜けていくと、右手には大海原が広がっていた。
海風が田村の体を冷やし、体力と、前へ進むための推進力を奪う。
前後には誰も居ない。
ただ1人、綽々と真っ直ぐ続く道を進む。
走るというのは、時々寂しさを感じることがある。
バレーボールは周りに常に人がいて、ボールを6人で繋いでいくスポーツだ。
1人になることは無くて、試合中も常に声を掛け合ってボールをチームで繋いでいく。
一方で、陸上は1人だ。
勝つか負けるかは、自分次第。
定められた道のりを走り抜けて、定められた場所にたどり着くまで、誰にも触れられることもなく、1人で戦い抜かなければならない。
でも、その寂しさは嫌いでは無かった。
その肉体1つで、限界まで走る。
その先には、何とも言い難い達成感があった。
何より菅井さんが言ってた通り、レース中は1人でも、練習中は周りで声をかけてくれる仲間がいて。
この仲間と共に、217.1kmの箱根路を走り抜きたいという夢もできた。
一度夢を失った時は辛かったけど、また新たな夢を見つけて、走り始めて。
今まさに、夢見ていた舞台に立っている。
そこを、自分の足で走っている。
ようやくここまで辿り着いたんだ。
あとは、この舞台を最後まで全力で、走り抜けるだけだ。
きっと今度は、夢を叶えられる。
10キロ地点、田村はユーラシア大の背中を視界に捉えた。
監督車の矢崎から声がかかる。
「田村さん、ここまですごくいいペースです。ユーラシア大はペースが落ちてきています。追いつけますよ…!」
その言葉に、田村は時計を確認する。
ピッタリ予定通りのペースでここまで来ていた。
残りは約11キロ。
まだ余裕はある。
絶対追いつく。
そして、抜き去ってやる。
秘めていた負けず嫌いの心が芽を出し、田村はピッチを速めた。
田村が8区を激走している頃、森田は付き添いの小林と共に戸塚中継所でジョッグをしていた。
耳にはイヤホンをつけ、ラジオでレースの動向をうかがっていた。
一歩一歩、今日の自分の調子を確認しながら集中して走る。
体の調子は良さそうだった。
欅大は現在14位。
まだまだ上に行けるはず。いや、絶対に行ってみせる。
森田は並々ならぬ強い想いを抱いていた。
「こちら3号車、西洋大の関は、初めての箱根路を快調なペースで走り抜けています。順位を1つ上げ、現在9位。実は関、高校時代に一度陸上を辞めたそうですが、再び奮起してここまで這い上がって来た雑草魂の持ち主です。今後が楽しみですね。」
ラジオからの実況に、森田は微笑む。
有美ちゃんも色々乗り越えて頑張ってるんだ…。
有言実行だもんね。
本当に強くなったな。
私も負けられない。
森田は走りながら、大きく深呼吸をした。
「ひかる、緊張してる?」
横を走る小林が訊ねる。
「緊張はしてますけど、良い緊張感です。むしろ、ワクワクしてます。」
森田がそう言うと、小林は
「ひかるは強いなぁ。」
と感心し、
「私なんて、平気なフリしてたけど昨日ほんとはガチガチだったよ。」
と、笑いながら自虐する。
ここで森田はゆっくりと足を止めた。
つられて小林も止まる。
「私は強くなんてないです。本当はずっと今日が不安でしょうがなかったんです。…でも、この2日間の皆の走りを見たら、やるしかないと思いました。」
森田は思いの丈を小林に吐き出す。
小林は森田をじっと見つめ、真剣に受け止めた。
「…だから、見ていてください。」
静かに、でも力強く宣言する。
そこに、まるでタイミングを見計らったように1人の人物が森田の目の前に現れた。
鳥居坂大の平手だ。
「今の森田さんと同じ舞台を走ることが、凄く楽しみだ。」
平手が言う。
「私もです。ずっと、あなたの背中を追ってきましたから。」
森田は平手の目を真っ直ぐ見据え、伝える。
すると平手は静かに優しく、でもどこか寂しげに微笑んだ。
「私はそんなに凄い選手じゃないよ。実はずっと、走ることが怖かったんだ。」
平手はおもむろに話し始める。
その話に、森田も小林も、じっと耳を傾けた。
「いつからか、期待されているような結果が出せなくなって、人々が落胆するのが分かって…。」
鳥居坂大は3年前、平手が1年の時に初優勝を果たした。
それは、1年生にして鮮烈なデビューを果たした平手の活躍も大きかった。
しかし、一昨年は優勝を期待されながらも結果はシード権内ギリギリの9位、去年はどうにか這い上がったものの3位だった。
平手自身も満足のいく走りは出来ず、長い長い暗闇のトンネルを彷徨い始めることになる。
「今も怖いんですか?」
と、森田は訊ねた。
「結局暗闇から抜け出すには、毎日、1日1日を確実に走り抜き、無理やり強くなるしかなかった。周りからの期待、自分の中の苦しみや弱さ、恐怖さえもを糧にして、より強い走りに昇華させるしか。」
平手の言葉に、森田も頷いた。
誰もが、弱い自分と対峙する。
そして、弱い自分が居なくなることはきっと一生無いんだろうな、と思う。
そんな弱い自分に勝つこともまた、強さなのだと。
「今はもう怖くない。仲間と共に、優勝するだけだ。」
平手の表情は一変し、猛禽類のような鋭い眼光で言葉を放った。
平手は、きっととんでもなく重いものを背負って走ってるんだと、森田は思った。
優勝を義務付けられるようなチームのエースとして、常に期待され、走り続けてきた。
そんな平手はもうすでに、一歩先を走り出していた。
平手はその力強い眼光のまま、森田を見て言う。
「今日、私は過去の誰よりも速く、この9区を走り抜く。森田さんにも、自分自身にも勝って。」
その言葉こそ出していないが、平手は区間新記録を叩き出すと暗に言っていた。
特に9区の区間新記録は、ここ10年程更新されていない。
過去に9区を走った猛者達の壁を超え、頂点に立った者にしか与えられない称号を、平手は掴み取ろうとしていた。
その堂々たる宣言に、森田は一瞬気を呑まれたが、すぐに切り替える。
「私は、平手さんのその記録を塗り替えて見せます。」
昂然と顔を上げ、森田は言い切った。
「平手さんが区間新記録保持者でいられるのは、多分10分くらいだと思います。」
森田の大胆すぎる宣戦布告に、さすがの小林も驚きと畏れを感じて身を震わせた。
鳥居坂大の平手の方が、どうしたって先にタスキを受け取り、走り出すことになる。
平手が区間新記録を出したとしても、それは所詮、後発の森田が鶴見中継所に着くまでの新記録だ、と森田は言い放ったのだ。
小林は、一歩も引かない2人をそっとうかがった。森田も平手も、闘志とお互いの走りへの期待を目に宿していた。
かつての王者、鳥居坂大のエース平手友梨奈と、寄せ集め集団の欅学園大のエース森田ひかる。
誰にも触れられず、割り込めない。
箱根駅伝のフィナーレを飾るにふさわしい、苦しみを超えた走りの申し子達の激突の時が、いよいよやって来たのだった。