1月3日 早朝


守屋は泊まっているホテルのロビーを出て、思いっきり背伸びをした。

まだ薄暗い空を見上げる。空気は冷たくて、吐く息は白い。昨日は無かったはずの雪も積もっていた。


守屋は緊張していた。夜もあまり眠れなかったし、注目度の高さに尻込みしている自分に嫌気がさした。


ネットニュースや新聞には、理佐の活躍と共に弱小チームの欅大が取り沙汰されていた。


"たった10人で箱根に挑戦"

"新・山の女神誕生"

"復路にエース登場。注目集まる"


といった見出しと共に、理佐のゴール写真が大きく掲載されていた。

すっかり時の人だ。

それにしても、ゴールの瞬間まで美しいな。


「ねぇ、人の写真ジーっと見て何してんですか。」


気付くとジャージ姿の理佐が真後ろに立っていた。

慌ててスマホの画面を隠す。


「え、あ、いや。」


何を動揺しているのだろう。

やましいことは何も無いのに。


「茜さん今からジョッグ行きます?行くなら付き合いますよ。」


理佐は何事も無かったかのように言う。


「うん、行く。」


と守屋が答えると


「じゃあ一緒に行きましょ。」


と言って理佐が走り出した。


隣を走る理佐を見て思う。

何となく、理佐が遠くに行ってしまったような感じがした。

昨日理佐が走る前まではいつも通りだったのに。

私も追いつきたい。理佐が辿り着いた場所に。…私に追いつけるのだろうか。


実は6区を走ることに自信が持てていなかった。菅井は「茜ならスピードがあるし足腰も強いから」って言って6区に指名したけど、あんな山道を一気に駆け下る度胸が守屋には無かった。


転倒する想像や、靴紐が切れる想像、順位を落とす想像といった、悪い想像ばかりをしてしまう。初めて走ることを怖いと思ってしまった。



「私、最初友香さんが箱根駅伝に出るって言い出した時、ふざけんなって思ってました。」


理佐がおもむろに話し始める。


「だって騙されてたんですよ?良い謳い文句で人を釣って、拒否すれば脅すって。詐欺じゃないですか?」


確かに。と守屋は思った。

理佐は最初、家賃の滞納を脅されて嫌々友香に付き合い始めたんだっけ。初めはやる気も無かった。


「でも理佐、今では虜でしょ、走ることに。」


「うん。気付けば虜になってました。もっと速く走れるようになりたいって。ひかるや友香さん、茜さんみたいに。」


理佐の言葉に、守屋は「え?」と聞き返した。


「いつも前を走る3人を必死に追いかけてました。3人は私の目標だったんですよ。」


「そうだったんだ。」


「ところで、私の目標の1人の守屋茜さん、もしかしてビビってるんじゃないですか?」


理佐にそう言われて、胸を突かれた衝撃と共に一気に心拍数が上がる。


図星だった。


「……ビビってないし。ワクワクしてるし…。」


守屋は目一杯の強がりを見せる。


「そうですよね、あの守屋茜がビビる訳がないですよね。負けず嫌いで、勝負事にすぐ熱くなる茜さんが。こんな最高峰の勝負を前にして。」


理佐がイタズラに笑う。

なんだか全て見透かされてるようで少しムッとした。でも、心の中にいた弱い自分が、少しだけ強さを取り戻し始めた気がした。


そうだ、これは勝負だ。


「そうだよ、私は負けない。」


「うん。それでこそ私の目標の守屋茜さんです。」


理佐は前を向いて走りながら、続ける。


「大丈夫です。茜さんなら走れます。」


理佐のその言葉に、守屋の中で消えかけていた自信がみなぎる。


「ありがと、理佐。」


「いいえ。大手町で笑顔で再会しましょうね。」


「そうだね。」


雪が舞う中、2人はジョッグを続ける。

白い息は上空に舞い、空気に溶け込んだ。



________



森田は、菅井の異変に胸を騒つかせていた。


「少しやることがあるから」と言って朝のジョッグをしなかったのだ。

菅井が大会前の朝のジョッグをしないなんて、絶対に変だ。


何か隠してる。昨夜もあまり眠れていなかったみたいだし。

…もしかして脚が悪いんだろうか。


ぐるぐると考えながら30分ほどホテル周辺を走り、やっぱりホテルに戻ろうと森田は決めた。

普段ならもっと走るが、どうにも集中出来ない。菅井のことが心配でたまらなかったのだ。


森田は悪い予感に急き立てられるように、ホテルへ駆け戻った。

泊まっている部屋がある3階の廊下を歩く。


森田の予感は的中した。

黒いバッグを持った白衣の医者が菅井の部屋から出てきたのだ。


やっぱり、脚の状態が悪いんじゃないか。


森田は勢いよく部屋のドアを開ける。

驚いた表情の菅井に構わず、「脚見せてください!」と、左脚のズボンの裾をまくりあげた。

痛々しい手術跡。その近くにある注射を打った跡。


「やっぱり脚の状態悪いんですね?」


森田はキリッと菅井を睨んで問いただす。


「るんちゃん落ち着いて。ちゃんと話すから。」


菅井は森田を宥め、隣に座らせる。


騒ぎに気付いた小林と梨加も、隣の部屋から駆けつけていた。


菅井は皆の顔をしっかり見つめながら、穏やかな表情で喋り始めた。


「さっきね、お医者さんに痛み止めを打ってもらったの。」


「痛み止めって…やっぱり状態良くないじゃないですか…。」


森田はうなだれる。


「故障したっていう脚、治ってなかったんですか?」


小林が驚いて訊ねる。隣の梨加は唇をギュッとつぐみ、心配そうな眼差しで菅井を見つめていた。


「恐らく再発しかけてるんだと思う。」


「それでも走るんですか?」


森田は声が震えないようにするのが精一杯だった。


「もちろん走るよ。」


「もし…今日無茶をしたせいで………」


森田は一瞬言葉に詰まる。その言葉を繰り出すことで、現実になってしまうような気がして怖かった。


「……これからずっと、走れなくなったら…どうするんですか。」


恐る恐る言葉を紡ぐ。

小林はじっと息を呑み、梨加が俯くのが分かった。

森田はじっと菅井を見つめ、返答を待つ。


「とても辛いと思う。」


「だったら…!」


無理をしないで、そう伝えようとするが隙を与えずに菅井が続ける。


「でも後悔はしない。」


静かに、力強く発する菅井に、森田は何も言えなくなった。

誰が何と言おうと、菅井は無理をしても走る気だと瞳から読み取った。

きっと、ずっと前から覚悟していたんだろう。


「箱根は私の夢なの。この日のために全てを捧げてきた。今無茶をしないでいつするの。」


菅井は言った。

止めることは出来ないな、と森田は思った。自分が菅井と同じ立場だったとしても、きっと同じ選択をするんだろう。


だったら、私がやるべきことは1つしかない。菅井の負担を少しでも減らすべく、タイムを稼げばいい。



部屋を覆った沈黙を、菅井の携帯の着信音が砕いた。菅井は短い会話で電話を切った。


「理佐から。芦ノ湖で最終エントリーが発表になって、鳥居坂大の9区は平手を入れてきたらしい。」


菅井の言葉に、森田は「よし」とつぶやく。


ついに同じ場所で戦える日がきた。

喜びと闘争心が体中を巡り、心臓を鼓動させる。


あの時は背中を追うだけだったが、今はあの時よりずっと強くなった。絶対に負けたくなかった。


「るんちゃん、絶対に競り負けるな。」


菅井には珍しく、強めの言葉をかける。

森田は決意をこめてうなずいた。



時刻は午前7時をまわっていた。

出発しなければいけない時間だ。


菅井と梨加は鶴見中継所へ。森田と小林は戸塚中継所へ。


一同はそれぞれの場所へと向かう。


別れ際、菅井は


「さっきの話だけど、心配しなくても再起不能になるようなことは無いよ。」


と森田に伝えた。


「本当ですね?」


「私は、どんな形でも走り続ける。走ることが好きだから。」


菅井は少し切なげな瞳を宿して、小さく笑った。

私を安心させるためについた嘘なんじゃないか、と森田は思ったが、それは心に留めた。


「なら、信じます。」


「鶴見でるんちゃんの走りを見るのを、楽しみにしてる。」


「1秒でも早く、タスキを渡してみせますから。」


森田はきっぱりと伝えた。

菅井はニコリと微笑み、森田に背を向け歩き出した。


森田はしばらくその背中を見つめた後、「由依さん、行きましょう。」と言って歩き出した。


もう誰の心にも迷いは無かった。今日で10人の挑戦は終わる。それを最高の形で締めくくるだけだ。