高低差800mの箱根の山を、1人だけ搭載しているエンジンが違うかのように駆け上る選手がいた。
乃木大3年、生駒里奈だ。
生駒は一昨年、初めて出場した箱根駅伝で5区を走り、見事区間新記録を樹立。昨年もその区間新記録を自ら更新し、乃木大の2年連続総合優勝に貢献した選手だ。
今年もまさに、自身の打ち立てた記録を破ろうとしていた。早々に2位の横浜大と1位の日向大を抜き去り、堂々と先頭を走る。
もはや、生駒の敵は自分自身だった。
まさかその遥か後方に、自分を上回るペースで快走する選手がいるなんて、予想だにしていない。
「やっぱり速いね、乃木大。」
芦ノ湖の特設ビジョンを見ていた菅井が呟く。
菅井と森田、梨加の3人は、特大の画面に映し出される生駒に釘付けになった。
生駒の走る姿は美しかった。
まるでそこだけ重力なんて存在しないかのように軽快に山を駆け上っていく。
中継を見ていた誰もが、今年の区間賞も生駒だと予想した。
欅大のメンバーを除いて。
「こちら5号車、最下位で出発した欅大の渡邉理佐が17位まで順位を上げ、快調な走りを見せています。」
画面に理佐が映し出されると、菅井と森田と梨加は3人で視線を交わし、ニヤリと微笑む。
驚異的なペースで各校を追い抜く理佐の姿に、その場ではどよめきが起こった。
理佐は悠然と山道を駆け上っていたが、そのスピードは生駒のそれを上回っている。
「あの選手は誰なんだ?」
「流石にこのペースで後半までもたないだろう。後半に落ちるのが目に見える。」
観客達のそんな声が、菅井達の耳に入ってくる。
でも菅井は、そうは思わなかった。
理佐なら最後までこの勢いを維持出来るはずだと、信じて疑わなかった。
それだけの練習をしてきたはずだ。
「理佐…ぶちかまして…!」
菅井は拳を握りしめ、つぶやいた。
そんな菅井の想いに応えるかのように、理佐は5区の山道を駆け抜けていく。
併走する車のエンジン音がこの山道の過酷さを物語る。
理佐は7キロ地点の大平台のヘアピンカーブすらも物ともせずに綺麗に走り抜いた。
そして前を走る西京大を抜き去り、16位に浮上した。
宮ノ下温泉郷に入り、富士屋ホテルの前を通過する。
破竹の勢いで山を上る理佐を見て、沿道に埋め尽くされた観客達は一層声援に力を入れた。
弱小チームの大逆転劇を期待しているのだろう。
一方の理佐は、沿道には目もくれず一心不乱に走っていた。区間賞を狙っていたのだ。
正直、最初から区間賞を狙ってたわけではない。自分の実力では生駒に勝てるはずがないと思っていた。
だが、その考えはさっき捨てた。
1区から4区までの皆の走りを見てからだ。
何故、そんなにボロボロになるまで頑張るんだ。何故、限界を超えても尚、走り続けることが出来るんだ。
分からない。
分からないけど、きっと大袈裟な理由なんてなくていいんだと思う。
実績とか、栄光とか、欲しいのはそんなものじゃなくて。
ただシンプルに、この10人で、いや、尾関や矢崎監督、支えてくれた人たちと一緒に箱根を走り抜きたい。
それだけでいい。
まだ誰も見たことのないその先を目指して。
そのためには、自分の限界を超えなければならないのかな。
前の4人の全力の走りを無駄にしないためにも。
理佐は走りながら、小さく微笑んだ。
内側からたぎってくる何かが、理佐を高揚させる。
どうやら私の心は今、かつて無いほどに燃えてるらしい。
超えてみせる。
その限界とやらを。
挑戦してやる。
まだ見ぬ領域へ。
自分の実力じゃ勝てないとかはどうでもいい。
勝てないような相手でも、そもそも勝ちに行かなければ勝てないんだから。
12キロ地点手前の小涌園前を通過する。
ここまでで、500メートル以上の標高差を一気に駆け上ったことになる。
だが、それでもまだ終わりではない。
残り約300メートルの標高差、距離にして4キロの上り坂がまだ続く。
理佐は少し気が遠くなりそうだったが、負けるな、と無理矢理自分を奮い立たせた。
小涌園を通り過ぎると地味な山道へと入り、沿道の客は一気に減る。
この時理佐は、視界にとらえた1人の人物を見逃さなかった。
高校時代からの親友、原田葵だ。
原田は「理佐ー!いけー!」とぴょんぴょん跳ねながら、涙声で必死に叫んでいた。
そんなに跳ねなくても見えてるし、聞こえてるから、と心の中で突っ込んだ。大体、子供のくせに何でこんな山道に居んのよ。ここまで来るの大変だっただろうに。
ふいに理佐は、高校の頃を思い出す。
…葵は昔からいつも一生懸命だったな。それに比べて高校の時の私はどこか腐ってて、一生懸命やるなんて無駄だしダサイと思ってた。
バレーの練習もよくサボってたっけ。
葵に『一生懸命やらないなんて勿体ないよ。』って言われて、それにムカついて、喧嘩になったこともあったっけ。
それが今はどうだ。こんなに一生懸命に走っている。チームメイトと共に夢を見ている。
一生懸命も悪くないな、と思った。
葵の言ってたこと、間違ってなかったよ。
気付くのちょっと遅かったかなぁ…。
…でも、ちゃんと気付けてよかった。
やがて15キロ地点の給水で、「区間新記録狙える。」と情報を得た。
よし。いける。
その情報が区間賞、いや、区間新記録の実感をより一層湧き立たせ、理佐の心と身体を奮い立たせた。
16キロ手前で城南大に並ぶ。
少し競り合ったが、城南大の選手はすぐに理佐から離れていった。
追い抜く時にはいつも、荒い息遣いが聞こえて来る。
どの選手もキツイんだ。
分かる。私もキツイ。
キツイけど脚はまだ動く。
まだ走れる。
もう、手を抜いたりしないって決めたんだ。
そして理佐は、箱根の山の最高到達点に達する。
そのままの勢いで、下り坂を駆け下った。