小池からタスキを貰い、土生は4区を走り出した。
ここまでの皆の走りを無駄にしないためにも、ここでタスキを途絶えさせたくはない。絶対に繋げてみせる。
土生は強い意志を持って、4区の道のりを一歩一歩踏みしめる。
一緒にスタートした英慶大の選手は、遥か遠くに離れてしまった。
それどころか、少し後ろにいた城南大と前橋大にもあっさり抜かれてしまう始末だ。
せっかく前の3人が頑張ってくれたのにな…
土生は情けなさと悔しさで、体調管理の出来なかった自分を激しく責める。
3日前に発熱し、風邪だと言われた。
昨日解熱したが、体は重かった。
体の底から寒気がするし、一歩踏み出す度に頭がズキンと痛む。おまけに、鼻がつまっていて呼吸がうまく出来ない。
今朝、熱は無かったはずなのにな。
また上がってきちゃったかな。
苦しい…キツイ…
その2つの言葉だけが脳内に渦巻く。
でも不思議なことに、走りやめようとは思わなかった。
今朝、菅井には走ることを止められた。
『苦しければ棄権してもいい。そうしたとしても誰も責めないから』と。
でも、拒否した。
『私は走りたい』って言ったら、菅井は少し戸惑いながら
『土生ちゃんがそこまで言うなら止めない。でも、もし走ってる途中でこれ以上は危険だって判断したらすぐに止める。』
と言った。ありがたかった。意思を尊重してくれた。絶対に走りきって、タスキを繋ぐって決めた。
…だって、今自分がこんなに笑えるようになったのは、紛れもなく皆のおかげだから。
過去の人間関係のしがらみのせいで他人も自分も信じられなくて、ネガティブ思考ばかりの私に、欅ハウスの皆はどんな時も寄り添ってくれて、一緒に悩んで、一緒に笑って、一緒に泣いてくれた。
そして皆と走り続けてきて、色んな自分と向き合うことが出来た。
新しい自分と出会わせてくれた。
そんな皆と繋ぐ217.1kmを、ここで終わらせたくなんてなかった。
残り5km、小田原の市街地に着く頃には、土生の意識は朦朧としていた。足元もおぼつかない。
あれから何人に抜かれたかもよく分からない。
それでも、前へ前へと脚を進める。
「欅大頑張れー!」
沿道の応援も、何だか遠く感じる。
「土生さん、もう棄権しましょう。棄権しても、誰もあなたを責めません。よくここまで頑張りました。」
矢崎から声がかかる。
だが、土生はそれを無視して進み続けた。
ようやく、土生は残り3kmにさしかかる。
4区のラスト3kmはだらだらとした上り坂が続く。特に最後の1kmはすでに山上りが始まっていると言っていいような上り坂だった。
土生はついに脚を止めた。膝に手をついて、全身で息をしている。誰もが、もう棄権するんだと思った。
矢崎が監督車から降り、土生の元へ向かおうとする。監督が選手に触れた時点で、棄権とみなされるのだ。
そんな矢崎に向かって、土生は手を突き出して制止した。
「来ないで…!」
「もう棄権しましょう。このままではあなたが危ないです。」
「嫌だ…。這ってでもタスキは繋げる。」
土生はキリッと矢崎を睨む。
その目力に、矢崎は触れようとした手を思わず引っ込めた。
「……皆が…待ってるから…。」
深呼吸をし、痙攣し始めた太ももを数回叩くと、土生は再び走り出した。汗の染み込んだタスキを握りしめながら。
その頃、小田原中継所では5区を走る理佐が黙々とストレッチをしていた。
その横では、付き添いの守屋と、土生の受け入れを整えていた尾関がテレビ中継を見ながら、いても立ってもいられずにソワソワしていた。
「土生ちゃんほんとに大丈夫かな?やっぱり無理矢理にでも棄権させた方が…。」
守屋が言う。
「土生ちゃんは意地でも走り抜く気ですよ。見てくださいよ、この目。全然死んでない。こんな目をしてる人を諦めさせる方が酷ですよ。」
理佐は画面を見て言った。
「そうだけど…。」
「見てるの辛いから、ちょっと走ってきますね。」
そう言って理佐はジョッグを始めた。
その後ろ姿を守屋は見つめる。
理佐は何も言わないが、いつも以上に気合いが入っているのがひしひしと伝わってくる。
それはきっと、これまでの4人、特に土生の走りを見てより一層強まっている。
理佐ならもしかしたら…
守屋は密かに理佐に期待を寄せていた。
理佐の走りを初めて見た時、この子相当速くなるんじゃないかって思った。
その期待通り、理佐はみるみるうちに記録を伸ばした。夏はAチームの練習についていけなかった理佐が、秋にはついてきていた。
今では、私も抜かれてしまうのではないかとヒヤヒヤしているくらいだ。
いや、もう抜かれてるかも。
その恵まれた身体能力に恵まれた体格、ここまでの努力、上り坂に対する適性、そして今の理佐のメンタルなら、もしかしたら区間賞も狙えるんじゃ…。
「さぁ、4区金村の力走により1位に躍進した日向大はいよいよ5区、佐々木久美へとタスキリレーです。すぐ後に2位の横浜大が続きます。」
テレビ中継の実況が伝える。
画面には小田原中継所でのタスキリレーの様子が映し出される。
「そして3区、4区で順位を3位まで落とした乃木大は30秒遅れで小田原へ着きます。乃木大5区は一昨年、昨年と区間新記録を更新し続ける山の女神、生駒里奈の登場です。生駒は今年どんな記録を生み出すのか、注目が集まります。そして4位で、鳥居坂大の米谷へタスキリレーです。」
そろそろ、理佐も中継所に行く時間だ。
理佐のベンチコートを受け取ると、スラっと引き締まった脚が露わになる。仕上がっている。
「理佐、今の土生ちゃんのペースだと、おそらくトップとは10分近く差が開くことになると思う。トップと10分以上差がつくと明日の復路が繰上げ一斉スタートになるから、出来たら避けたい。」
守屋が言う。
「つまり、生駒さんより速く走れってことですよね。」
理佐は飄々と答えた。
「もしかして初めから区間賞狙ってた?」
守屋が訊ねると「さあね。」と理佐は答えて中継所へ向かった。
これは狙ってたな。
頼しすぎる理佐の背中に、守屋は期待を込めてニヤリと微笑んだ。