ラスト3kmの地獄の上り坂を、小林は無我夢中で走っていた。

3校の選手の後ろにピッタリと付いていた小林だが、その中の1校、ユーラシア大の選手が坂の手前でペースをあげ、集団を引き離した。


小林は、それに付いていく。


苦しい。でも、離れるもんか。


もはや意地だった。やがて前の方に、2校の選手を視界にとらえた。

その中には、鶴見中継所の時点では3位だった英慶大のユニフォームも見えた。英慶大の2区の選手は確か、インカレでも上位の成績をおさめていた人だったはず…。調子が悪いのだろうか。


いや、もうそんなのは関係ない。


トラックでの自己ベストに差があっても、今はこの箱根で、この2区で速く走った方が勝つんだ。


ユーラシア大の選手も前の2人に追いつこうと必死だった。

小林は上手く風除けしながら、ユーラシア大について行く。


そしていよいよ、追いついた。

4つの大学が塊となる。

追い付かれた側も追いついた側も、誰もが必死だった。

どこで誰が離れるか、誰が飛び抜けるか。


ラスト1km

最初に仕掛けたのは英慶大の選手だった。

ついていけない者はここで離れて行く。


小林は、英慶大についた。


ポニーテールが左右に激しく揺れる。


もうどうなってもいい。この後のことなんか考えない。とにかく少しでも速く戸塚中継所に行って、小池へタスキを繋げてみせる。


小林はラスト300mでタスキを肩から外し、さらなるスパートをかけた。

英慶大を振り切って、前に脚を踏み出す。顎が上がる。腕の振りもぐちゃぐちゃだ。

でも、絶対に諦めたくなかった。


小池が見えた。

笑顔で手を振り、何かを叫んでいる。


徐々に、沿道の歓声にかき消されていた小池の声が耳に届き始める。


「ラストー!踏ん張れ!!」


あと少しだ…。

踏ん張れ自分…!


小林はタスキを持った腕をめいっぱいに伸ばした。


前傾姿勢で中継ラインを超え、タスキは小池に渡る。小林の背中を軽く叩いて、小池は飛び出していった。


あまりにも勢いよく中継所に入った小林は誰にも受け止められず、地面に転がる。

すぐに係の人に抱え込まれ、ビニールシートの上に寝かされた。


「由依さん凄かったです!区間10位!7人抜きですよ!」


戸塚中継所で待っていた田村が、寝ている小林の体を揺らす。涙で顔がボロボロだ。


「え、私そんなに抜いた…?」


全く意識してなかった。確かに集団に追いついた所までは覚えてるけど…最後はとにかく必死すぎて脚を動かすことだけしか考えてなかった。


「ラストの由依さんカッコ良すぎて泣いちゃいましたよ〜。涙止まんなくて、周りにドン引きされましたけど。」


小林は田村のボロ泣きの姿を見てクスッと笑う。

そんなに泣くか、と。


「保乃泣き過ぎ。」


「だって〜ほんとに梨加さんも由依さんもかっこよすぎて…私も頑張らなきゃって。」


「ありがと。」


「てか、私のことはいいんです!みぃさんですよ、みぃさん!」


田村が思い出したかのように、テレビ画面を見る。


ちょうど画面には小池が走る姿が映され、解説員が欅大を紹介していた。


「こちら3号車、欅大の3年生小池美波が快調な走りを見せてます。先程の2区、小林の力走により13位まで順位をあげました欅学園大学。この欅大は、わずか10人で箱根への出場権を得ました。しかも、メンバーの半数以上は今年の春から陸上を始めた初心者です。」


「凄いですよね、わずか10人でここまで来るとは。しかもこの欅大、復路にエースの森田、キャプテンの菅井、さらにスピードのある守屋という経験者を持ってきています。後半にどうレースを引っ掻き回してくれるのか期待ですね。そのためにも、この3区、4区で出来るだけ良い位置でタスキを繋げる必要があります。」



そんな解説をされているとは知らず、小池は懸命に走る。



小池の走りは終始安定していた。


戸塚中継所でのタスキリレーの時点で、後ろの英慶大との差はほんの数秒しかなかった。すぐに追い付かれ、抜かれた。だが、小池は気にしなかった。


ここで無理して飛ばせば、後半はもたない。

後半が勝負だ。今は自分のペースでいい。菅井にもレース前にそう言われていた。


「美波ー!がんばれ!いいぞ!」


沿道には、家族が応援に来ていた。

ちょっと泣きそうになる。家族に箱根駅伝に出るんだって伝えたら、すごく驚いていた。


それはそうだ。

今まで絵を描いてばかりでスポーツとは無縁の生活を送っていたのに、まさか大学生になって始めることになるなんて。しかもこんなに本格的に。


最初は毎日泣いてたなぁ。友香さんがあんなに言うから仕方なく始めてみたけど、全然走れないし、毎日吐くほど走らされるし。


自分には無理だって思ったこともあったけど、土生ちゃんと励まし合って、何とか乗り越えたんだっけ。


でも、走れるようになってくると不思議なことに楽しくなってきて。欅ハウスの皆といるのも楽しかった。


そっか。これで終わりなのか…。この10人で走るのは。何だか寂しいな。


永遠に、この時間が終わらなければいいのにな。



「小池さん、ここまでいいペースです。このあとは自分の思うように走って、とのことです。」


監督車の矢崎からの言葉で、はっと我に帰る。気付いたら15km地点まで走っていた。


小池は順位を落としつつある城南大と前橋大の姿を視界にとらえた。


給水を受け取る時、「前との差縮まってるよ!」との情報をもらう。

よし、行ける。

小池はペースをあげた。


18kmを過ぎたところで、大海を目の端にとらえた。潮の香りをほんのりと感じる。

だが、のんびり景色を楽しんでいる暇は無かった。

だから言ったやん、と心の中で菅井に突っ込む。


ここで海風が吹き、それが追い風となって小池の背中を押した。

小池は風に押された勢いそのままに、スピードに乗る。



ジリジリと城南大と前橋大との距離を縮め、ラスト1kmでいよいよ追いついた。

その勢いのまま、2校を一気に追い抜く。

さらに前方を見ると、序盤に追い抜かれた英慶大の姿もあった。


次の土生ちゃんのためにも、少しでも距離をつめなきゃ…。


小池はタスキを取り、手に巻きつけた。

脚も腕も必死に動かす。

英慶大の選手に追いついたところで、中継所が見えた。

土生が笑顔で手を振っている。元気そうに見えた。


待っててよ、今行くから。


最後の50mは英慶大との一騎打ちだった。まるで徒競走だ。最後の数歩は呼吸さえも止めて、2校は同時に中継ラインを越えた。


「土生ちゃん!!」


タスキが風になびく。

土生は無言でタスキを受け取り、平塚中継所から走り出ていった。


タスキリレーの瞬間、小池は動揺した。

一瞬触れた土生の手が、熱かった。

走り終えたばかりの小池の手よりもずっと。


…熱、あるやん。

元気じゃないやん。

バカ。嘘つき。


「みぃちゃん、おつかれ!」


齋藤に迎え入れられると、小池は齋藤の胸で泣き始めた。ただでさえ走り終えた後で苦しいのに、余計に呼吸出来なかった。


「え、え、みぃちゃん?どした?」


突然のことに齋藤は戸惑う。


欅大は同率11位で4区へとタスキリレー。

小池は区間13位。大健闘だ。


だが、小池の涙は止まらない。


「土生ちゃん、全然大丈夫ちゃうやん…!ならもっと、私が頑張らなアカンかった…!」


全てを出しきったはずなのに、走り終えてみるとまだ頑張れたんじゃないかと思ってしまう。土生の手に触れてから余計にその思いが強く募る。


「みぃちゃんは良く走ったよ。あとは土生ちゃんを信じよう?」


齋藤が小池にそう伝えるも、小池の涙はしばらく止まらなかった。