1月2日


箱根駅伝のスタートが、15分後に迫っていた。


スタート地点の大手町では、1区を走る梨加がベンチコートを着てジョッグしていた。


各大学の応援部、関係者、大勢の観客、テレビクルー……分かってはいたが、それでも想像以上に人が多い。注目されることが苦手な梨加は、走ることで緊張を紛らわせた。


付き添いの菅井が、梨加の元へ近づく。


「ぺーちゃん、あまり走るとレース前に疲れちゃうよ。」


「んんん…でも、走ってないと不安…。」


梨加はそう言って口をつぐんだ。


梨加の緊張は嫌というほど菅井に伝わっていた。1区は特に歓声も多いし、注目されやすい。区間を決める時に1番危惧していたのは、梨加が人の多さに尻込んでしまわないか、ということだった。


「ぺーちゃん、とにかく走ることだけに集中して。今、ここにいるのは人じゃない。全員パンだよ。」


菅井は目一杯のジョークをかます。

すると、梨加は笑った。


「ふふふ、友香ちゃん面白い。パン…。」


「そう、パン!あの人はメロンパン、あの人はコッペパン、あの人は米粉パン。」


そう言って、顔の丸い人と細長い人、小太りの人を順に指す菅井。

結構失礼なことを言うな、と梨加は思ったが黙っていた。あまりに菅井が必死だったので、梨加はまた笑った。


「友香ちゃん、ありがとう。緊張、少しほぐれた…。」


「ほんと?良かった。あ、そろそろ時間だね。」


菅井が時計を確認する。スタート地点にはまばらに選手が集まり始めていた。


梨加はベンチコートを脱ぎ、菅井に託す。 


フレッシュグリーンのユニフォームに、少し濃い目のエメラルドグリーンのタスキが肩に掛けられていた。タスキには、白い糸で欅学園大学と刺繍されている。


「ぺーちゃん、1年間私に付き合わせちゃってごめんね。」


菅井が言う。


スタート前に何を言ってるんだ。梨加は心の中で反抗しつつも、


「私の意思でやってたんだよ…。謝らないで…?」


と、言った。

菅井はまた「ごめん。」と謝った。

そんな言葉が聞きたいんじゃないよ、と梨加は思ったが、それも心の中に留めた。


梨加は最後に菅井から背中を思いっきり叩いてもらい、気合を入れてスタート地点に立った。



午前8時。


一瞬、あたりが静まり返り、スタートの号砲が鳴った。

箱根駅伝の始まりだ。


梨加は走り始めた。小林が待つ鶴見中継所へ向かって。



レースはゆっくりとしたペースで展開された。

どの大学も様子をうかがい、牽制しあっている。

菅井の読み通りだった。このペースなら、梨加も集団についていけるだろう。


それからしばらくは、レースに動きが無かった。誰がどのタイミングで仕掛けてくるか、心理戦だった。今か今かと好機を狙っている選手もいる。

梨加は集団の最後尾につき、上手く風除けをしながらただただ懸命についていった。

このままゆっくり行きますように、と念じながら。




菅井はその頃、電車を乗り継ぎ、小林の待つ鶴見中継所へと向かっていた。手には携帯テレビを持ち、レースの動向をうかがっている。


今年の箱根駅伝往路の最終エントリーは、多くの人々の優勝予想合戦を白熱させた。


3年ぶりの優勝を目指す鳥居坂大は、エースの平手友梨奈を補欠枠に回していたのだ。

しかし菅井は、明日の復路の最終エントリーで平手が9区か10区にエントリーされるのだと予想した。


一昨年、昨年優勝の乃木大は2大エースの西野七瀬を2区、白石麻衣を10区に起用、5区には一昨年、昨年と同様山登りのスペシャリスト生駒里奈を配置する盤石の体制だった。


日向商業大もまた、優勝候補のひとつだった。エースの小坂菜緒を筆頭に、初優勝に向け、勝ちを取りに来たような区間配置だった。


他のどの大学も本気で勝ちに来ている。

でも、欅学園大学だって負けていないと菅井は思っていた。


ふいに、携帯電話が鳴る。

監督車に乗っている矢崎だ。


「お嬢様、私は梨加さんに何とお声がけしたらいいのでしょう。」


矢崎は陸上のことを何も知らない。ただ、菅井の執事だからという理由だけで監督にされ、監督車に乗せられたのだ。それでも、献身的にサポートしてくれた。今ではなくてはならない存在だ。


「ぺーちゃんは辛そう?」


「いえ、もうすぐ10キロを過ぎますが、よく食いついています。集団も団子状のままです。」


「なら、何も言わなくていいよ。」


菅井が言う。

菅井は1区の最大の難所、17キロ辺りの六郷橋まではこのまま行くはずだと予想していた。

心の中で、ぺーちゃん耐えて…!と念じる。


しかし矢崎は不安そうだった。


「それはあまりにも寂し過ぎます。これじゃ年寄りのドライブになってしまいます…。」


「じぃやはどっしりと構えててくれたら良いよ。ぺーちゃんが辛そうになったら、励まして。」


菅井がそう言うと、矢崎は困った声で「歌でも歌いますか…?」と言うもんだから、菅井は少し笑いながらこう続けた。


「じぃや、じゃあ私からの伝言をお願い。さっきのごめんは撤回。直接伝えたいことがあるから、鶴見中継所で待ってるって。」 





レースは17kmを過ぎ、集団が六郷橋にさしかかったところで動きを見せた。


一気に先頭に出たのは乃木大学の高山一実だった。そこに横浜大学と英慶大学の選手があとに続く。


集団はあっというまにばらけ、縦にのびた。


この時の梨加はもう、前に進むだけで精一杯だった。六郷橋の上り坂が梨加を苦しめる。


梨加は必死に腕を振ってなんとか体を進めようとするが、颯爽とペースを上げるトップ集団を見送ることしか出来なかった。



それから少しして、監督車に乗る矢崎から声がかかった。


「梨加さん、ここまでついていけたのは立派です。これなら先頭とのタイム差も少なくて済むでしょう。それから、お嬢様からの伝言です。さっきのごめんは撤回。そして、直接伝えたいことがあるから、鶴見中継所で待ってる、と。」


ごめんを撤回してくれて良かった。

それにしても、伝えたいことって何だろう。


気になる。

何がなんでもタスキを繋いで、友香ちゃんからの言葉聞かなきゃな。


梨加は少しだけペースをあげる。

体は上手く動かなかった。苦しい。


でも絶対に立ち止まることは無かった。

今までだって、こんな風にキツかったこと、沢山あったよね。


ふいに、色んなことが走馬灯のように頭を駆け巡る。


この1年、思ったより楽しかったな。


昔から何をやっても失敗ばかりで、おまけにすぐに諦めてしまう。何かを成し遂げたことなんて一度もなかった。

でも、陸上はそうじゃなかった。友香ちゃんの思いを聞いた時、初めてやってみようと思えた。

それでも、何度も諦めかけた。自分だけものすごく遅いし、長い距離を走るのは辛いし。でも、たとえ走ってる時は辛くても、皆が居たから楽しかった。皆と同じ場所で走りたいって思った。今度は諦めなかった。


友香ちゃん、誘ってくれてありがとう。


直接会って、伝えなきゃ。


梨加は最後の力を振り絞り、とにかく前に進んだ。