翌日、齋藤は戻ってきた。


「皆、心配かけてごめん。心を入れ替えて頑張るから、よろしくね」


気まずそうに齋藤が言うと、すかさず理佐が言葉をかける。


「遅いですよ。ふーちゃん居ないとつまらないんだから。サボった分、倍練習してくださいよ。」


「んもー、理佐ったらツンデレだなぁ!」


齋藤は嬉しそうに理佐に抱きつく。

理佐は離してー!と叫びながら齋藤を無理やり剥がす。理佐も齋藤も、周りも笑っていた。


これで一件落着のように思えたが、森田は1人、離れた場所でイライラした様子を見せていた。


「早く練習しましょうよ!」


語尾を強める森田に皆はハッとし、すぐに練習を始めた。


森田は苛ついていた。

この間の記録会では、欅大は惨敗だったじゃないか。5000m17分以内なんて、あくまで予選会出場の基準なだけであって、箱根では全く通用しないのだ。

さらに森田自身も、トップ選手に手も足も出なかった焦りがあった。

もっと走り込まなければ。もっと、速くならなければ。誰にも負けないくらい、風にのるぐらい軽やかに走れるように。



それから森田は狂ったように走り続けた。

だが、体は正直だった。オーバートレーニングで、森田の調子は崩れていく一方だ。


見かねた菅井が森田に声をかける。


「るんちゃん、最近無理しすぎなんじゃない?オーバートレーニングは故障の元だし、このままじゃ___ 」


「___菅井さんは危機感が無さすぎです!」


菅井の言葉を遮り、森田は叫んだ。


「こんな甘いやり方じゃ、箱根なんて到底無理です。今の皆の記録は第一線には到底及ばない。それに、私は故障していない。走ればすぐに調子が戻るはずです。」


森田はそう言い切り、菅井の元を離れた。

菅井は何も言い返せなかった。


それからも、菅井の忠告を無視して森田は誰よりも走り続けた。

走れば走るほど、暗闇の中へと引きずり込まれるような感覚だった。だが、走るのを辞めれば、暗闇から一生出られない気がして辞められなかった。



森田が長い期間くすぶっている間に、齋藤と梨加は必死に練習し、記録を伸ばしていった。


そして7月下旬の記録会で、ようやく2人は5000m17分以内を突破し、晴れて欅学園大学は箱根の予選会への出場権を得た。


齋藤と梨加がゴールした瞬間に、森田以外の皆で駆け寄り2人を囲む。今夜は宴だ!と浮かれている一行を、森田は冷めた目で見ていた。森田は焦りから解放されることもなく、ますます焦燥にかられていた。


予選会出場を決めたお祝いの宴は、その夜開催された。

料理をたいらげ、一息ついたところで住人達は梨加を称え始めた。


「ぺーちゃんのラストスパート、感動しちゃった。」

と、理佐が言う。


「一時はどうなることかと思いましたけど、齋藤さんも余裕で17分切れましたしね」

田村が続ける。


土生や小池が梨加に偉いねーっと言って頭を撫で、梨加は満足そうにお酒を飲み干す。

齋藤は酔っ払い、盆踊りを始める始末だ。


そんな様子を静観していた森田は我慢の限界を迎え、テーブルを思いっきり叩いた。

その音に、賑やかだった空間は一気に静寂に包まれる。


「そんなに凄いことですか?17分を切ることが。」


森田は言った。


「ねぇ、それどういうこと?」


普段は温厚な田村も、さすがに語気を強めて森田を睨んだ。


「ぺーちゃんもふーちゃんも、この短期間でこれだけタイムを縮めたんだよ。それのどこが凄くないっていうの?」


理佐は静かに言葉を連ねるが、内心はブチ切れている。


「甘いって言ってるんです。今みたいにチンタラ走って箱根なんて行ける訳がない!17分を切っただけでこんなに喜んで、呑気に酒なんて飲んでる場合じゃないでしょ!」


森田は思いの丈をぶつけた。

守屋は「るんちゃん、飲みすぎたんだね、落ち着こう」となだめる。

しかし、森田の言葉に今度は小林がブチ切れた。


「ちょっと速く走れるからって、言っていいことと悪いことがあるでしょ!皆がひかるみたいに走れる訳じゃないんだよ!」


小林は森田に掴みかかった。


「まぁまぁまぁ、落ち着いて!」

と、守屋が2人を引き剥がそうとするが、森田はそれを押し除けて小林に投げかけた。


「ならもっと練習しろよ!いくら練習しても無駄かもしれないけど!」


「るんちゃん、言い過ぎだって。」

土生が優しく宥めようとするが、


「さっきから黙って聞いてたら…どんだけ人侮辱すんねん!良い気になってんなよ!」


と、田村がさらに森田に掴みかかろうとする。それを小池が押さえつけようとした時だった。


それまで黙っていた菅井が、見たことの無い表情で勢い良く森田に駆け寄って、森田の頬を叩いた。

乾いた音が広いダイニングに響く。


叩かれた森田は菅井を睨みつける。


「るんちゃん、いい加減に目を覚まして!ぺーちゃんもふーちゃんも、皆も、こんなに努力してる。なのに、何故それを否定するの?あなたよりもタイムが遅いから?スピードだけが大切なら、走る意味はないと思うよ?」


菅井のあまりの剣幕に、部屋中の全員が動きを止めた。

誰もが、怒った菅井を初めて見た。

目には涙が溜まっていた。


「走りは、速さを求めるだけじゃダメなの。私を見れば分かるでしょ?いつか無理がくる。だから___ 」


菅井の言葉はふいに途切れた。森田の目の前に立っていた菅井は、よろよろと力が抜けてその場に倒れ込んだ。


「菅井さん!?」


森田は慌てて菅井の体を支える。菅井の顔は青ざめていた。


「友香!?しっかり!」


守屋が菅井の頬をはたいても反応しない。意識がないようだ。


「き、救急車呼んで!」


住人たちは慌てふためいた。