気持ちのいい春風が木々を揺らす。

欅学園大学の校舎からまっすぐ伸びる通りを歩く菅井友香は、風になびく髪を耳にかけ、花の無い桜の木々を見上げた。


3月も終わりを迎える。桜が満開になる頃には、最後の年の大学生活が始まる。おもむろに菅井は左膝に触れた。


だいぶ調子が戻ってきている。

今年が最後のチャンスだ。あと1人。

「欅ハウス」の住人が揃えば、ようやく走り出せる。

菅井は高鳴る気持ちを抑えきれず、期待に胸を膨らませた。


…その時


どこからか、入り乱れた足音と怒声が聞こえてきた。音のする方を向くと、1人の小柄な女の子がエプロン姿のおじさんに追いかけられていた。


女の子の右手にはパン。

おじさんの怒号。

瞬時に、万引きだと分かった。


しかし菅井はすぐには追いかけなかった。距離が遠すぎるし、どこか他人事だったからだ。

…彼女の走りを見るまでは。


目を奪われた。小柄な体で力強く地面を蹴って、でも重力なんか感じさせないくらい軽やかに、風を切って走る彼女の姿に。


「ごめんなさい、自転車借ります!後で返しますので!」


その辺の人から自転車をかっぱらい、猛スピードで自転車を漕ぐ。

だんだんと近づくその後ろ姿。女の子を追いかけていたおじさんは、彼女のスピードの速さに追いかけることを諦めたようだ。

そのことに気づかないのか、彼女は走るスピードを緩めないどころか、上げていく。

菅井は彼女の横を、自転車でピタリと併走した。

すごい。今まで色んな人の走りを見てきたけど、こんなにしなやかで、無駄のない綺麗なフォームは久しぶりに見た。


「あんた、誰?」


併走に気づいた彼女は、ぶっきらぼうに言い放った。

これだけのスピードで走っているのに、息はほとんど乱れていない。


「ねぇ、走るの好き?」


菅井は彼女の問いを無視して、訊ねた。


すると彼女は、ゆっくりと立ち止まって答えた。


「わからないです。そもそもあんたに答える義理はないです。」


彼女にそう言われて、菅井はハッとする。会ったばかりの人に何を聞いてるんだ。


「そうよね。ごめんね、いきなり。とりあえず、パンは返そう。」


菅井がそう言うと、案外素直にパンを差し出してきたので受け取る。


菅井の胸の高鳴りは最高潮だった。

自転車を全力で漕いだからではない。


出逢ってしまったんだ。

ずっと待ちわびてた人に。


「私は菅井友香。4月から、欅学園大学の4年生。あなたは?」


彼女の目を見て、名前を言う。

ショートボブの綺麗な顔立ちをした女の子だった。まだ少し幼くて、あどけない。どこかで見たことがあるような気もする。

でも、瞳の奥はすごく寂しそうで、悲しみに満ちていた。

すると彼女は気まずそうに目を逸らし、仕方がなさそうに自己紹介した。


「…森田ひかる。春から欅学園大学に入学します」