世に出回る書籍には、「資本主義は幻想に基づく」、「国家は幻想に基づく」、「貨幣は幻想に基づく」等々、いわゆる幻想論が語られています。一方に幻想があれば、他方に現実があるはずなのですが、「現実」とは何かを語る段になると、口調が曖昧になるのが幻想論の特徴です。結論から先に云えば、国家、資本主義、貨幣の幻想論を説く書物に出会ったら買わないほうが無難です。お金と時間の無駄です。
私の推測では、幻想論が世に出始めたのは18世紀中盤ぐらいです。フランスの重農主義に端を発し、古典派経済学の創始者アダム・スミスが流行らせたと考えられます。幻想論はもともと政府批判として始まりました。16世紀から18世紀半ばまで、重商主義が西欧の経済政策の主流でした。重商主義とは、「雇用を促進し、失業者をなくし、貿易赤字を減らし、外貨を稼げる政策が、国家にとって重要だ」という思想です。21世紀の全ての国家の経済政策です。国家はバカじゃない限り、重商主義を推進します。国家が重商主義的でなかったことなど、一瞬たりともありません。
アダム・スミスを始めとする古典派経済学は、重商主義批判として始まりました。なぜ古典派経済学は重商主義を目の敵にしたのか?重商主義は、政府が経済政策に関与することを認めます。古典派経済学は、政府の関与が嫌いだったのです。したがって、重商主義批判の真の標的は政府でした。
俗物経済学の教科書によれば、重商主義は国富を金銀と混同したとされています。これは誤解です。こういう誤解が広がったのは、アダム・スミスが重商主義は「金銀崇拝主義」だと断定したからです。のちの経済学者は、スミスの見解に無批判に追従しました。19世紀終盤から20世紀中盤にかけて、経済史の研究者たちが重商主義を再検討したら、スミスの重商主義批判には根拠がないことがわかりました。
古典派経済学は、お金を富だと崇拝するのは幻想に基づくと考えました。では真の国富は何なのか?古典派経済学によれば、労働と商品です。お金は、商品交換という歯車を円滑に回す潤滑油にすぎないと。潤滑油に過ぎないお金を求めるのは、幻想を富として求めるようなものだと。お金が真の価値ではなく、商品を生産する労働こそが真の価値だと。幻想論は、貨幣幻想論として始まりました。
19世紀中盤になると、国家は幻想だという言説が流行りました。マルクス主義です。国家は人々の幻想に支えられているんだと。1980年代には、自由主義者とマルクス主義者の間で民族幻想論が流行りました。ナショナリズムは幻想に過ぎない、なぜなら「民族」とは、幻想の産物に過ぎないからだと。資本主義幻想論も流行りました。もともと幻想論は経済思想として生まれたので、資本主義が幻想と主張されても驚くべきことではありません。性差も幻想だという議論も流行りました。ともかく幻想論とは、現体制に対する批判として始まったことだけを押さえておきましょう。
貨幣も、国家も、民族も、資本主義も幻想に過ぎないなら、なぜなくならないのか?幻想論者は答えます。「みんなが幻想しているからだ」と。なるほど。少数の知的エリートは幻想だと気づいているのですが、大衆は無知蒙昧だから気づいていないと。エリートが少数派である限りは、貨幣も、国家も、民族も、資本主義もなくならない。どうすればよいのか?幻想論者の答えは、「大衆を啓蒙せよ!」です。そういうわけで、社会体制を変革するために、幻想論者は、「みんな気づけ。幻想に過ぎないぞ!」と大衆を諭すわけです。この論法は、映画「マトリックス」が採用し、大ヒットしました。
お気づきになったと思いますが、幻想論者は、自分たちを覚醒した少数エリートだと考えています。「貨幣、国家、民族、資本主義という悪弊がなくならないのは、大衆が覚醒していないからだ」、これが幻想論の前提です。「ある制度が存在しているのは、大衆がその制度の妥当性を信じているからだ」、これが幻想論の骨格です。ではなぜ大衆は、その制度の妥当性を信じているのか?幻想論の答えは、「その制度が存在しているからだ」です。つまり循環論です。制度が存在しているから大衆は盲信し、大衆が盲信するから制度は存在していると。そして制度は幻想に過ぎないと。
とても便利な論法です。無意味ですが・・・。
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