小林節氏、馬脚を現す | 国家についての誤解

国家についての誤解

なるべく少ない字数で、一切の学術的作法を省いて、俳句のような簡明さで、19世紀以降の政治学の成果をブログ的スタイルに翻訳してみる。

 憲法学者の小林氏は「戦争法案は憲法違反だ」と断言。「われわれは条文の意味はこうだという神学論争を言い伝える立場だ」とも語り、憲法学の議論は「必要優先」の議論とは別だとも強調した(産経新聞6月22日)。

 1926年にドイツの政治学者へルマン・ヘラーが、『Die Krisis der Staatslehre(国家学の危機)』という有名な小論を寄せています。ハンス・ケルゼンという著名な法学者が上梓した『一般国家学』を批判して曰く、これは国家なき国家学だと。ヘラーの目線からすれば、ケルゼンが何をやろうとしたかというと、平たく云えば、国家学を「純粋法学」に還元したんです。私流に翻訳すれば、ケルゼンは国家の社会的現実は全部無視して、法学的神学論争をしたんだと。

 「神学論争」という用語は、一般的に何を意味するかというと、現実を無視して重箱の隅を突くような無益な論争に終始するというということです。もちろん、神学論争と「神学論争」を区別しなければいけません。神学論争は、宗教の教義についての論争ですが、「神学論争」は学者の無駄話を意味する慣用句です。

 何度も云いますが、憲法は国家の憲法です。「部族の憲法」も「家族の憲法」もありません。憲法は一種類だけ。国家の憲法です。19世紀末までの政治学者は、この常識を知っていました。「憲法は国家の憲法だよね」と。だから、政治学者は法学者でもありました。ところが、政治学も分業と細分化が進み、政治学と憲法学が分離してしまいました。この状況から2種類の「バカ」が生まれました。①国家を知らない法学者。②法学を知らない政治学者。この状況を憂いたのが、ヘルマン・ケラーでした。

 産経が伝える「憲法学者の小林氏」とは、慶応大学名誉教授の小林節氏のことです。この人、憲法学者の立場を「神学論争を伝える立場だ」としましたが、正鵠を得ています。ようするに自分は、「国家を知らない法学者」と告白しているわけです。まぁ、開き直りです。「国家なき憲法学」は、必然的に「神学論争」に帰着します。法が機能する社会的現実を無視して法を論じるわけですから。

 ヘルマン・ヘラーが問題提起したのが、1926年。あれから日本では、何の進歩もなし。とうとう開き直って、憲法学者の意見を「神学論争」だと認めて恥じない輩が、堂々と国会で珍説を陳述するに至ってるわけです。人文学の分野って、こんなことが起きるんですよね。小林氏は、「憲法学の議論は必要優先とは別だ」と強調するわけですが、ようするに必要性がないということです

 小林氏が云う意味での憲法学は確かに無用ですが、国家論の枠組みの中での憲法学は有用です。政治学者と法学者は2つの考慮しなければいけません。①社会的現実における法解釈。②法的規範における社会的現実です。憲法学を「神学論争」と云って恥じない輩には、早速退場いただきましょう。小林節さん、あなたのことです。日本で、憲法学が神学論争にならない日が来るんでしょうか。


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