両親の誕生日に感謝の手紙を書いて渡した後、そう言えば幼少期に幽霊を見た事があったなと思い出したのです。
もちろん手紙には書きませんでしたけどね。
夜中に、部屋の隅に女姓が立っているのに気がつきまして 白い肌襦袢姿で、小柄で、顔立ちが整った人でした。
毎回(3回ぐらい立て続けに見たのです)絶叫して母を起こすのですが、私しか見えないのですよ
この記憶は何十年も忘れていた事だったのですが、あの女の人は誰だったのかとすごく気になりはじめました。
家の中にいた幽霊ということは、身近な家族やご先祖かもと思い、
最初、明治生まれの祖母のタキさんが思い浮かびましたが、その頃はまだ存命だったので、それ以前の人です。
でもすごく祖母のタキさんの事が気になりました。
なぜなら少女時代、大人とおしゃべりするのが好きだった私は、寡黙な祖母タキさんから、
「私は結婚を後悔している」と聞いた事があったからなんです。
確かに、同じ屋根の下に住んでいたのに、祖母と祖父が会話している姿をほぼ見た事がありませんでした。
子どもながらにそれはとてもショックな事でしたし、タキさんの心がいつも沈んでいる様に見えて心配でした。
なので出来る限りタキさんに話しかけていたのを覚えています。
「おばあちゃんの楽しいことって何?」
「動物は可愛いよね。おばあちゃんは好き?」
「誰かとおしゃべりすると楽しくなるね」
「クラスメイトだったおじいちゃんはどんなだった?」
など、子どもの目線でしつこく話しかけ、タキさんも苦笑しながら正直に答えてくれていたと思います。
その後、祖父よりも20年も長生きしたタキさんでしたが、羽目を外すこと無く「◯◯家の奥さん」を寡黙に通し続けました。忍耐の人生そのものです。
実のお母さんだったらそんな娘をすごく心配していただろうなと思い、
両親にタキさんのお母さんのことを尋ねてみたのです。そうしたら母が覚えていました。
「タキさんのお母さんは、小柄で綺麗な優しい雰囲気の人だったわね。いつも和服をきちんと着て、
よく遊びに来て夕飯を食べて、応接間に布団を敷いてあげると泊まっていったわよ。応接間っていう部屋は、あなた達兄妹3人が産まれてからは、私達家族の寝室になったところね」とのこと。
タキさんのお母さんは、その部屋に泊まり、着物を衣紋掛けに掛けてきっと肌襦袢で寝たのでしょうね。
で、幽霊となって現れた理由は、
楽しい思い出があったから死後も遊びに来たのでしょうか。
おそらく違います。
「人生はあきらめと忍耐のみ」と暗く沈んだ娘を心配して、親心で現れたという理解で合っていると思いました。
「娘のタキさんを頼みます。娘の生き様をどうか理解してやってください」だったのかと。
タキさんにとっては「あきらめと忍耐」で精一杯、笑顔になる余裕なんて無かったのでしょう。結婚して自分が自分ではなくなってしまった・・・、というがっかり感、本当によく分かります。自分にもそういう時期がありました。
改めて、自分を犠牲にして、責任者として家族を守りぬいたタキさんに、敬意を払いたいと思います。
随分と時は経ち過ぎてしまいましたが、タキさんのお母さんやタキさんについて、自分なりではありますが分析と理解が出来て良かったです。
しかしながら、
生きとし生けるものすべてにとって、小さな幸せが散りばめられている、そんな社会にしていきたいものですよね。
それは遠い道のりに感じてしまいますけれど、
まずは自分から、
今から、
どんな小さなことから、
あきらめない、ってことでしょうか
藝大美術館「吉原展」にふらっと散歩がてらに行きました。当時の街並み、建物の作り、下水道、関連した職業など、人々の暮らしがシステムマチックに循環している様子が分かり、とても驚きました。吉原を認可した豊臣秀吉は、深く時代を読んでいたんですね。その反面、西洋文明はとかく偽善的だと思いながら、色んな事を考える機会となりました。これから私達に必要な社会というものは、女性とか結婚とか子育てとかをグルッと循環させつつ社会を上手く回しちゃう「吉原」的な、あっと驚く発想が必要だと感じました。
(※吉原の復活という意味ではありません)
最後までお読みくださりありがとうございました