以前、「「紅の詩」と「紅の豚」と「アナーキー・イン・ザ・UK」」という記事を書いて、
「紅の詩」の歌詞を解釈しました。
この記事では、長くなるのと、抽象的になるので、「紅」の意味の解釈をしませんでした。
なので、それを中心に、前回の解釈に沿った後編として、まだ書いていなかった謎を解き明かします。
ただ、「紅の詩」はとても象徴的な歌詞なので、テーマは当然、抽象的で、
「紅」の意味も、抽象的に解釈せざるをえないと思いますので、ご承知おきください。
まず、「紅の豚」における「紅」の意味を考えないといけません。
「紅の豚」は、「赤い」飛行艇に乗る主人公の通称です。
「紅(赤)」の意味は、第一に、共産主義です。
そして、第二に、カーレースにおけるイタリアン・カラーかもしれません。
「紅の詩」に結びつけるために、より抽象的に表現すると、
前者は、「平等」、後者は「愛国心」です。
もっと広義に抽象化しておくと、「理想への情熱」、「人間愛」といったところでしょうか。
国を、人を愛し、理想を持つがゆえに現実の社会を否定し、
好きな彼女にも告白できず、夜にしか会いに行けない、
アウトサイダー(=共産主義者=豚)になっているのが、主人公です。
ですが、それは、家庭に入らない、「自由人」の男でもあります。
「紅の豚」で、主人公を飛ばしてくれるのは、「設計技師」である少女であり、
彼女の手による「紅の飛行艇」です。
一方、「紅の詩」で、主人公を飛ばしてくれるのは、「女優」である少女であり、
彼女が演じる「紅の舞台」です。
「女優」は、演じることで、想像力によって、「現実」ではない、「夢」、あるいは、「新しい理想」を創造します。
彼女は、オリオンが沈んだ夜中から夜明けに働くので、
「睡眠不足の女優」であり、「項垂れを知らぬ稲穂」です。
「あたし」は、「眠れぬ 君のハートに 翼広げ 運命を加速」する、
つまり、「女優」が演じる舞台に向かって飛ぼうとします。
「明日の ルーティンもパーティーもヒュプノスのハグ(=眠り)も」という、
現実のすべてをスルー(否定)して。
「ヒュプノス」はギリシャ神話の眠りの神で、「女優」は「ヒュプノス」と対照的な存在として描かれています。
ですから、夜空を赤く染めて目覚めを導く、暁の女神アウロラ(エーオース)をモデルにしているのでしょう。
「女優」=「アウロラ」でないにしても、「アウロラ」が「朝焼け」という紅の舞台を準備します。
つまり、
日常の現実(海岸)と眠り(ヒュプノスのハグ)
→ 夢(女優が演じる舞台)と目覚め(暁の女神アウロラ)
というのが基本構図です。
時は、アウロラの恋人のオリオンが眠った深夜から夜明け、
場所は、月が海岸から水平線まで海面を照らす「琥珀の道」の向こうにある暁の紅の舞台。
「あたし」は、そこに向けて飛んでいく準備をして待っているのです。
「数多の神様」を観客に、その舞台で、女優(アウロラ)と共演するために。
でも、「女優」は「よそ見」して、なかなか「返事をクレナイ」のです。
なかなか暁が来ないように。
「返事」とは、「舞台」に上がる返事であり、「クレナイ返事」の返事は、「紅」の返事です。
「クレナイ」の状況は、「あたし」が、
「切なくて 飛べない豚になりそーうだ」であって、
「油断して 知らない歌で泣きそーうだ」な状態です。
この2つは同じこと、現実から飛び立てず、
現実まみれの海岸に打ち寄せる波の音や、季節外れの突風の音が奏でるような歌を聴き、泣くのです。
一方、「紅」の状況は、「女優」が上がる舞台を、暁が赤く染めた時です。
その「紅」の本当の意味をあえて言葉にすれば、
「紅の豚」の「紅」が象徴する、「理想への情熱」、「人間愛」と、
暁の光が象徴する、「創造力」、「目覚め」を下敷きにしたもので、
現実に対して、「夢(新しい理想)」を創造する力、情熱です。
それを、エビ中に寄せて表現すれば、
「現実」や「大人」に対しての、「永遠に中学生」の理念、その創造力です。
「紅の豚」は、エビ中に声援(=紅の詩)を送る、ファミリーであり、
エビ中に曲を書く、TAKUYAさんです。
「紅の舞台」に一番ふさわしい女優は、オレンジのヒマワリ、柏木さん だと思いますが、
本当は、ファミリーの心の中にあって、光を放つ創造力です。
*TAKUYAさんがこの曲を元旦に作り始めた意味、そして年の瀬にひなたがTVで歌ったことと意味について書いたこの文章もどうぞ。