「幕が上がる」のメタ・メタドラマ構造 | ももクロ→エビ中→東北産の魅力

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ももクロ、エビ中が、ともに演劇部を設定にしたドラマ(映画・舞台)を演じました。


ももクロには、ももクロ自身のリアルなドラマがあります。
エビ中にも。

そして、彼女たちが演じる「幕が上がる」と、「エクストラショットノンホイップキャラメルプディングマキアート」は、それ自身がドラマです。

そして、それぞれの中の劇中劇としてのドラマもあります。

つまり、どちらのグループにも、3つのレベルのドラマがあったわけです。

この3つのドラマには関連性があるので、その構造は、「メタ・メタドラマ」というべきものです。

両グループのメタ・メタドラマの構造は、違っていて、グループの特色が出ていると思います。

また、それぞれで、「ドラマ」の「現実」に対する関係も異なります。

この違いが面白いと思ったので、比較してみます。

あくまでもこの点に絞って、具体的なネタバレ少な目の抽象論になりますが。



まず、ももクロです。
(やっと昨日、映画を初見しました。ちなみに原作は読んでいませんし、最近は、ももクロの情報から遠ざかっていますので、考察に足りない部分があると思いますが…)


ももクロは、比較的シンプルです。

まず、誰もが感じるように、「幕が上がる」の富士ケ丘高校演劇部のドラマは、ももクロのリアルドラマと似ています。

ももクロには、悩みながらも大きな目標を立てて、それに向かって努力するシリアスな青春ドラマがあります。

「幕が上がる」は、高校演劇の全国大会を目指すシリアスなドラマなので、ももクロのリアル・ドラマと似ています。

メンバーが演じる役のキャラクターも、かなりメンバーのキャラに近い設定です。
他にも、たくさんの類似点があって、それに、小ネタもたくさん出てきます。
また、順撮りをすることで、メンバーの演技の上達を、部員の演技の上達に重ねようとしました。

つまり、リアルドラマと「幕が上がる」のドラマを、パラレルに一致させようとしています。

また、大会用の劇中劇の「銀河鉄道の夜」も、その「どこまでも行けるチケット」を持っているというキーワードが、この2つのドラマの目標追求ドラマと一致しているかのようです。


でも、ももクロには、例えば、既存のアイドル像を演じないというような、素のままを見せる、というテーマがあります。
これと、ももクロの分かりやすい典型的な目標達成のドラマは、一見、矛盾するように見えます。

ももクロと「幕が上がる」の演劇における「ドラマ性」は、この素のままの現実と、どういう関係を持っているのでしょうか?


「幕が上がる」の劇中劇は、最初、「ロミオとジュリエット」という古典劇でしたが、ウケが悪く、演劇部員の日常を取り入れた劇「肖像画(われわれとモロモロ)」に路線を変更します。

また、大会用に選ばれる「銀河鉄道の夜」も、自分たちの現実の中から、発案し、解釈して台本にします。

ここには、本広監督が心酔する原作者の平田オリザの演劇論(現代口語演劇理論)が反映されています。

芝居じみた演技で主義主張をするのではなく、自然な日常をそのままに見せる、という考え方です。

この考え方は、ももクロの素を見せるというテーマと似ています。

また、「幕が上がる」のドラマの中での、演劇は現実に近づけるべきという考え方を、メタレベルに適用すると、ももクロが演じるドラマは、ももクロの現実に近づけるべきということになります。
実際、「幕が上がる」は、原作に比べて、かなりももクロのリアルドラマに近づけています。


平田オリザには、「物語否定」という考え方があると思います。
彼は、「物語が人間を不自由にする」(「現代口語演劇のために」)と書いています。

これは、単に自分たちの「現実」に合わない「物語」が無意味だということではなくて、「物語」というのは、本来的に、「現実(日常)」を限定してしまうものである、という考え方でしょう。

だから、「ドラマ」を、限定されない「現実」のありのままの可能性を示す「ドラマ」にすることで、「ドラマ」と「現実」の距離を解消し、一致させる必要があります。

それは、登場人物が、自分で自由に目標を決定する「ドラマ」でもあります。

「幕が上がる」では、古典演劇の「物語」、つまり既存の価値観で、自分たちの「現実」を限定するのではありません。
限定のない可能性を表現する劇中劇、つまり、人生の目標の探求のために、どこまでも行けるチケットを持つ「銀河鉄道の夜」を、演じます。
そのことで、自分達の限定のない「どこまでも行ける」現実に、そして、自分で目標を決定する「現実」に、「ドラマ」を一致させるわけです。




だから、ももクロのリアルドラマも同じだ、と監督は解釈したのでしょう。

ももクロのリアルドラマは、典型的な大目標達成ドラマを演じているのではなく、自分たちを限定しない活動の表現であり、その結果であると。

だから、というわけではないでしょうが、「銀座鉄道の夜」は未完の作品であって、それと同じように、「幕が上がる」も未完な物語ですし、ももクロのリアルドラマも、もちろんそうです。


この「物語に限定されない現実の可能性」を、人間関係に当てはめると、どうなるでしょう。
平田オリザは、「幕が上がる」で、それを「多様性」と「一体性」として提示したのでしょう。

膨張するこの宇宙は「多様性」を生み続ける、個々人の個性という距離も離れ続ける。
でも、その距離を越えた「一体性」の可能性もある。

限定がなければ、当然、そうなります。

映画では、これが、さおりと中西さんの関係であり、その彼女たちは、自分たちの関係が、ジョバンニとカンパネルラの関係と同じだと、感じました。
だから、「銀河鉄道の夜」を選ぶことにしました。

また、これは、演劇部員と吉岡先生の関係であり、ももクロと早見の関係とも同じでした。
劇団部員同士の関係であり、ももクロのメンバー同士の関係でもあります。


このように、3つレベルのドラマは、パラレルに関連して、一致する、そういうシンプルな「メタ・メタドラマ」の構造があります。

その前提には、「ドラマ」は、限定するものではなく、限定のない「現実」の可能性を示すべきものだ、という平田オリザの演劇理論があります。


ももクロのリアルドラマは、彼女たちの限界のない可能性を持つドラマであり、それを反映した映画のドラマを演じます。

富士ケ丘高校演劇部のドラマも、彼女たちの限界のない可能性を持つドラマであり、それを反映した劇中劇を行います。

「銀河鉄道の夜」という劇中劇ドラマも、どこまでもいけるチケットを持った旅という夢(劇中劇中劇)を見て、そう生きようとするドラマです。


シンプルで強力なももクロのリアルドラマが、他の2つのレベルのドラマと一致することで、その力強さが強調されています。



「幕が上がる」では、本来、「全国に行く」のは、後輩に託されることです。

その後輩グループ、エビ中の場合の、メタ・メタドラマの構造は、もっと複雑です。

エビ中においては、ドラマは単に、現実の可能性を表現すべきものではありません。

次の記事に、改めて書きます。